2017-09-29から1日間の記事一覧

東アジアからは離れてしまうのですが、水辺にいる女の妖怪について、西洋のウンディーネやセイレーンとの共通性などはあるのでしょうか。

女性と水との関わりは、根本的には、文化=男性/自然=女性の二項対立図式によるもの、と整理されることが多いです。西洋の水の妖女も東洋の水の妖女も、概ね文化=男性を侵害するものである点も共通します(しかしなかには人魚姫のように、男性=文化の枠…

「一切衆生悉皆成仏」について、「草木国土悉有仏性」「山川草木悉有仏性」など幾つかの派生があり、ものによっては戦後の日本的アニミズム論のなかで造語されてきたという話を、どこかで読んだ気がします。本覚論と日本的アニミズム論について、整理していただく回があるのかなと期待しております。

もちろんやります。以前、草木成仏に関する整理を文章として書いたのですが、「一切衆生悉有仏性」というそもそもの『涅槃経』の字句には、実は植物は対象として含まれていない。それが「草木国土悉皆成仏」に変質してゆくのは、極めて列島的な文脈によるも…

鯨や鳥獣が自己の身を犠牲にして我々を救ってくれているという考えは、民衆に何処まで浸透していたのですか。

このような宗教的喧伝は、宗教団体の側が一方的になすだけでは、社会に定着してゆきません。主に実際に殺生を行う猟師・漁師たち、その肉を扱う加工業者や、肉を食べる消費者たち、彼らの持っている負債感との関係のなかで相互構築されてゆくのです。よって…

捕鯨にまつわる負債感の説明では、殺生功徳論と、鯨を菩薩とみなすやり方では大きな隔たりがある。何がそのような違いを生んだのだろうか。

やはり鯨という存在が、人間にとって、自身の身体をも危険にさらす可能性の高い、強力な動物だったからでしょう。仏教の畜生観においても、伝説的神獣である龍や鳳凰などはもちろんのことですが、獅子や象といった強力・強大な動物は、レベルの高いものとし…

生物の殺生=罪の思考回路は、仏教の殺生を忌避する考え方にかなり影響を受けている印象があるが、仏教伝来以前にも、動物を悼む風習はあったのか。普段生きてゆくうえで、それが殺生のうえに成り立っているとは気付きづらく、生きるためには仕方ないという発想になる気がするが、それを罪業と結びつけて鯨祭や供養というリアクションを起こさせるような、きっかけのものはなかったのか。

列島社会でいえば、縄文時代から、狩猟・捕食した動物を儀礼的に埋葬した事例はあります。アニミズム的世界観においては、その動物に宿っている精霊をきちんと儀礼的に待遇すれば、その毛皮を取っても、肉を取っても骨を取っても、それは人間の衣服を脱いで…

負債感は、自然から人間に対する贈与について、人間側が感じるものとすると、贈り物文化に通じるものなのでしょうか?

そうですね、モースやレヴィ=ストロースが注目したように、人間と人間との間に結ばれる贈与交換の関係は、自然環境と人間との関係における転化、もしくは相互構築によって作られてきたものだと思います。以前に書いたことがあるのですが、人間が根源的なと…

日本は、捕鯨には限らず、「伝統」という言葉をあまりに無批判に使用していると感じます。

そうですね、「伝統」があたかも太古の昔から連綿と受け継がれてきているものと、無批判に考える傾向が強い。そうしてそのほとんどが、近代における〈創られた伝統〉である場合が、圧倒的に多いと思います。ぼくは、〈集合的アムネジア〉という言葉を使って…

講義の目的に、「いかに〈共生〉してゆくか考えてゆきたい」とありますが、この目的において、宗教「学」と宗教実践の境目を、どうお考えなのかお伺いしたいです。

私自身は研究者であると同時に僧侶でもあるのですが、常に学問と実践とは一体でありたい、あるいは学問も実践の一表現として理解したい、と考えています。そうすることで初めて、研究が実践に根拠を提供し、あるいはその方向性を監視・矯正すること、逆に実…