2017-10-20から1日間の記事一覧

人間は子供のころから、そもそも自然や動物と交感する能力を持つのか、それともそのような能力は教育によって植え付けられるのか。もし後者なら、人間はもともと他者と交感する能力を持っておらず、文化的に刷り込む必要があるのかもしれない、と感じました。

恐らく、1か0かということではなく、どちらも少しずつあるのが本当のところでしょう。幼児の自然に対する感応の力は、未だ自己/他者の分節が明解でないために強く生じるものです。教育はそのあたりをコントロールしつつ、重要な部分だけを発展的に伸ばそ…

異類婚姻譚というと遠野のオシラサマの話を思い出すのですが、これはトランス・スピーシーズ・イマジネーションの視角からすると、少し違和感があるようにも思います。どう解釈すればよいのでしょうか。

『遠野物語』のオシラサマは、原型としては、中国六朝の『捜神記』という志怪小説に出てきます。養蚕と桑、馬の飼育とは中国の文脈のなかで密接に関連しており(恐らく、厩の二階などで蚕を育てることが原因のひとつです)、遠野地方でそれが盛んになるなか…

神話には、自然の有限性が語られていると思います。「持続可能な開発」が今でこそ世界で唱えられていますが、先人の知恵はすでにもっと前の神話の時代から考えられていた、ということでしょうか。

前近代社会の人々が、自然環境を近現代人と同じように有限なものとみ、持続可能な利用を考えていたかというと、必ずしもそうではなかったろうと思います。ただし、過度な利用、無軌道な利用が何らかの破綻を招くという共同体規制は、集団を経験的に縛るもの…

異類婚姻譚について、生まれた子がどちらの種に属するのか、またいわゆる混血の誕生はないのか、といった点が気になりました。

異類/人間のどちらが男性、どちらが女性であっても、例えばトーテム信仰的な視野から語られる場合には、生まれた子は民族集団の祖、すなわち人間である場合は多いと思います(ナーナイの話に出てくる熊の子は、人間の娘が熊に掠われ、熊の集団に入って生ん…

トランス・スピーシーズ・イマジネーションの事例として、植物に関するものは存在しないのでしょうか? / 輪廻で取り上げられるのは動物の場合が多いように思うのですが、植物は輪廻するものとしては想定されていないのでしょうか?

存在します。のちの、「巨樹から生まれしものの神話」で扱うつもりですが、とくに列島社会は、もともと人間を草木の一種であると考えていた形跡があります。ただし輪廻に関しては、もちろん釈迦が樹木神になる物語りもあるのですが、やや注意して扱うべき問…

レヴィ=ストロースのトーテミズムに対する批判や、神話が他地域から伝わっている可能性も考えると、神話や習慣からトランス・スピーシーズ・イマジネーション的な分析をするのは慎重になるべきと思う。

まず、分析対象とする神話が、その地域にどのような形態として存在するのか、生活の基軸に据えられているのか、それとも単に娯楽に過ぎないのか、といった調査や判断が重要です。また後者の場合であっても、それを語り継いでゆく人々の認識のありようを探る…

人間の異類に対する感応能力によって、人間なりの感謝の示し方として祭祀を行うとのことでしたが、その内容は、やはり動物からすると残虐な行為にみえるのではないでしょうか。そうした方向での想像力は働かなかったのですか? / 動物の主神話などは人間のための規範であって、他者への交感の事例としては強引なのではないでしょうか?

授業でもお話ししたと思いますが、例えばイヨマンテにおいては、子熊の精霊を父や母の待つ世界へ送るという建前の理解のほかに、そうした祭儀を残酷と思い、子熊を可哀想だと思う認識とが同居しているのです。そうした感情を示すものが、注意してみてみると…

トンプソン・インディアンの山羊の異類婚姻譚が、人間の狩猟における無軌道な欲望を抑えるものになったということは、葛藤によるストレスの軽減をなす物語システムという意味では、どのように説明されるのか。

紹介した神話においては、「雌を殺すな、子供を殺すな」という点が強調されていますが、これはいいかえれば、「大人の雄は殺してよい」との表明です。また多く前近代社会・民族社会において、捕食と性行為とはアナロジーをもって結びつけられますが、若者に…

熊の義兄、熊となった姉も殺してしまうナーナイの話は、何を教訓とするものか確信が持てませんでした。

紹介した伝承は、物語の筋のほうは、かなり錯綜して複雑になっています。恐らく、話者が他者に語る際に、さまざまに尾ひれや要素の拡大・縮小が行われることで、多様に変化をしたものでしょう。しかし、類似の事例を多く収集してみますと、これが熊と人との…