2017-12-13から1日間の記事一覧

洪水や地震などの歴史が、日本において重視されない、または伝承されない理由は何なのでしょうか?

重視していないわけではないだろうと思います。事実、地震や津波の頻発する地域では、その危険や避難の方法を訴える口碑、それについて明記された石碑などの類が存在します。しかし、近代以降、列島社会は大きな流動化のなかにあります。先祖代々同じ場所に…

義満が北山第における接見儀礼でとった態度は「現実主義的」とのことだが、その具体的な意味がよく分からなかった。

つまり、名目や理念よりも現実的な利益を採る、という姿勢です。義満とすれば、明に対する完全な臣従は潔しとしない。しかし、交易による利益は捨てがたい。そこで、明の儀礼のあり方を主体的に改変して対応、その譲歩を引き出し、自らの利益も保ちえたので…

受験のときも不思議だったのだが、都城における宮殿の位置が、平城京以降はすべて北部中央だが、藤原宮のみ中央部にあるのはなぜしょうか。

藤原京の宮を中心に置く構造は、中国における戦国時代末期の書物『周礼』考工記に依拠していたと考えられています。これは中華思想と同じ空間概念で、中央に文化の中心としての王があり、その徳が周縁へ向かって及ぼされてゆくことを示しているのでしょう。…

新たに『宋朝僧捧返牒記』が出てきて、以前までの様相を覆す内容であると、以前までの資料は誤りとみなされてしまうのでしょうか。それともやはり編者や他の資料との一貫性などの情報に基づき、それぞれの資料を相対化して、どれが「正しい」とみなされるかを決めてゆくのでしょうか。『福照院関白記』や『満済准后日記』は、日記であるぶん主観が入ってしまうと思うのですが。

これまでの授業でもみてきましたが、現代歴史学では、史料を「正しい」「誤っている」という、二者択一的な見方で価値付けたりはしません。『福照院関白記』や『満済准后日記』は、確かに書き手の主観から成り立っている文献ですが、それゆえに、問題の事象…

日本の朝廷や皇室との軋轢を避けるべく、明使の接見儀礼(冊封儀礼)を秘密裏に行おうという義満の意図が、側近の武士たちには共通認識として存在したのでしょうか?

そのあたりは難しい判断になりますね。儀礼の詳細は記録としては残っていますので、完全に秘密が保たれたかというと、そうではなかったろうと思います。管領斯波義将が義満の対応を批判したのは、その儀礼の詳細を知ったうえでも「事過ぎたる様」と判断した…

中華思想のもとに外交を行ってきたはずの明は、義満が目の前で明の規定どおりに儀礼を実践しなかったのをみて、黙っていられたのでしょうか。

史料として明確に残っていないのですが、恐らく明側の使者と義満側との間でかなりの折衝があり、妥協点が探られたはずです。義満としては、現実主義的に明との外交を成就したい一方、国内の批判に配慮して、完全に臣従するような態度が喧伝されることは避け…

私周辺の人間のなかで、「歴史は勝利した者たちにより叙述されたものであるから、どれくらいの歴史内容が嘘なのか計り知れない。ましてや日本の歴史問題である慰安婦、南京事件などもどれくらい真実なのか分からない。もしかするとすべて嘘なのかもしれない」という考え方を持つ人が少なからずいるみたいです。このような歴史観に基づく態度について、どのように思われますか。ここにも「歴史修正主義」的な態度がみられるのでしょうか。

「歴史修正主義」はhistorical revisionismの訳語ですが、あたかも良い方向へ変更されるかのような印象を与えるので、あまり適切ではないかもしれません。それはともかく、質問のような態度ももちろん、いわゆる「修正主義」に含まれます。しかし、「修正主…