2018-05-14から1日間の記事一覧

『もののけ姫』で神格化されている動物は、弥生的な動物と縄文的な動物、どちらもいるなと思いました。

そうですね。『もののけ姫』は室町時代が舞台なので、中世に至る神話・説話・伝承に登場する神的な動物たちを、総動員している印象です。縄文時代のところでも回答を載せましたが、古代の神話では、イノシシは人間に対して対立的な役回りで登場し、シカは反…

縄文から弥生にかけての変化のなかで、死と再生に関する信仰はまったく失われてしまったのでしょうか?

重要な質問ですね。例えば狩猟関係の送り儀礼は、現在に至るまで列島のなかで維持されていますし、古墳時代の古墳祭祀は、やはり再生の意味合いを強く持つものです。弥生時代の東日本地域では、遺骨を土偶のような容器に収めて埋納する葬法も発見されており…

動物表象に関する考察などはいろいろな説があるとのことですが、それらの正当性をはかるにはどのような基準があるのでしょうか。

検証しうる材料はとことん動員して仮説が提示されてゆきます。例えば、授業でもお話しした銅鐸の長頸・長脚鳥の種の同定が典型的です。この議論は、大林太良氏の穂落神神話(穀物起源を穂落神=鳥の飛来によって説明するもの)に関する研究を援用し、春成秀…

鹿の角に神秘性を見出していたならば、弥生の人びとは、鹿の角を用いた呪術などはしていなかったのでしょうか?

残念ながら、鹿角そのものを使った呪術なり、祭儀なりの遺構・遺物は発見されていません。しかし、鹿角は中国大陸から西域にかけて、再生の象徴として多くの図像を残しています。日本でもその生え替わりが、稲作のサイクルと重複視されたことは間違いありま…

西洋と比較すると、農耕において蝗を悪魔とする描写がありますが、神格化とは異なり、ただ怖れる対象であったようです。 / 「害獣」が神聖視もされるという考え方はとても面白いです。そうした考え方は自然の恵みに感謝する精神に基づくのですか? / 害獣としての鹿をなぜ信仰するようになったのか、いまひとつピンとこなかった。駆除するとき、どうして建前を必要としたのだろうか?

「害獣」という考え方自体が、ヒト至上主義に立ったいいかたになっているわけです。例えば現在でも多くの狩猟採集民は、人間をも襲いうる肉食獣を「害獣」とは捉えず、ともに自然環境にあって食物を獲得するため、競合している存在と考えます。遊牧をなすモ…

弥生時代になると首長が登場するとあったが、縄文時代の抜歯も身分を示すと聞いたことがある。縄文の身分差と弥生のそれとは違うのだろうか? / 強力な首長の出現といった文化的なことは、どのような事象から判断できるのでしょうか?

春成秀爾さんの説ですね。抜歯は縄文晩期の西日本で最も発達しますが、その形式は大別して、犬歯を上下とも抜くもの、上の犬歯と下の切歯を抜く二通りがありました。春成説では、抜歯が成人の儀式と婚姻の儀式において行われたとみて、ほぼ全員が成人儀礼で…

北九州から東方へ伝播するにつれて濠が浅く、V字型からU字型になったとのことでしたが、北九州は朝鮮との交流が深かった分、戦いに発展することが多かったのでしょうか。 / V字型の環濠は、なぜ防御性に優れているのですか? / 東の方が平和だったということでしょうか? それはなぜなのでしょう。

朝鮮との、ということではありませんが、中国や朝鮮で培われてきた、戦争を前提とする集落のあり方、社会のあり方が、ダイレクトに伝わっていたのが北九州地域だということでしょう。そうした集落が幾つもあったとすれば、互いに紛争になる可能性も高い。環…

吉野ヶ里と池上曽根の集落としての相違には、気候的な相違も関係するのでしょうか?

大きな枠組みでいえば、それもありえます。弥生早・前期は寒冷な時期ですから、とくに東日本地域について、稲作の浸透が滞った原因のひとつに推定されます。半島的な吉野ヶ里の社会・文化と、縄文的な池上曽根の社会・文化の相違は、もともとは縄文期の地域…

拠点的な環濠集落について、「都市と考えられる?」とありましたが、むしろ都市とは別ものなのでしょうか?どこが違うのですか?

都市の定義の問題です。日本の歴史学界を長く規定してきた唯物史観においては、都市とは社会的分業と階級分化の結果として生じてくるもので、多様な産業に従事する人口が集中し(農業においては多く外部依存)、周辺の諸集落に対し社会・経済、場合によって…

水田の遺跡は土の層に埋まっていたものもあったと思うのですが、なぜパワーポイントの写真のように、水田と一目で分かる形に発掘できるのですか?

畔を突き固め水を張った水田遺構と、のちにそのうえに堆積していった地層とでは、土壌の性質や化学組成が異なります。発掘作業によってその境界を見極め、堆積地層を丁寧に除去して、写真のような水田遺構を検出しているのです。

一帯の森林を伐採しつくしてしまうほど、当時の人々は木が必要だったのでしょうか。いくら農具を作るためとはいえ、そんなスピードで木が伐れたのですか?

誤解があるようですが、授業で紹介した森林の伐採は耕地を開くためのもので、農具を作るためではありません。開発のために切られた樹木が、農耕具や灌漑施設を作る木材に転用された、ということです。

縄文→稲作のテクニカル・ジャンプが、あまりに大きすぎるのではないでしょうか。より生育の容易な陸稲より先に、水稲が猛烈なスピードで広がったのはなぜでしょうか。

注意しておきますが、授業で何度もお話ししているように、現在、灌漑稲作は急激に列島中に伝播したのではなく、数100年というそれなりに長い時間をかけて、次第に普及をしていったことが分かっています。そのうえでですが、一般には、日本列島の土壌は、火山…

稲作の定着に時間がかかっていたとしたら、生存にかかわるために稲作を諦めた集団もあったはずで、その傾向や割合などもかなり変わってくるのではないかと思いました。

確かにそのとおりですね。私が以前に研究していた中国西南少数民族のヤオ族は、一時期漢民族に従属して水稲耕作をしていましたが、反乱によってその待遇から解放されると、稲作を放棄して山中へ戻り、もともとの焼畑農耕の生活へ復帰してゆきます。1970年代…

弥生後期の農業生産において、鉄器の利用率はどの程度あったのか?

鉄製農耕具が一定量流通し普及したのは、やはり北九州地域であったようです。弥生時代における列島の鍛冶技術は未だ成熟してはいなかったので、その利用にはやはり限界があったと考えられます。瀬戸内海沿岸から近畿にかけての地域は、北九州と比べて著しく…

弥生時代の開始期に、朝鮮半島から日本列島に来た人びとは、どのようにして列島在住の人びととコミュニケーションを取っていたのでしょうか? / どのような手段で半島まで行っていたのでしょう。言語は通じたのですか? / 弥生と縄文との間で争いはなかったのですか?

授業でもお話ししたように、縄文の段階から、北方や南方より、多くの人びとが海を渡って断続的に列島に入ってきています。時期を選び、対馬・壱岐・沖ノ島などを伝って移動してくれば、丸木船のようなものでも半島との間を往復できるのです。また、玄界灘沿…

人骨でDNA鑑定ができるのでしょうか?

できます。人間の細胞には、核とミトコンドリアにDNAが含まれており、前者には約60億、後者には約16500の塩基配列が存在します。古代の遺骨など長期の経年変化にさらされたものは、配列が壊れてしまっている場合も多いようですが、ミトコンドリアの場合には…

「縄文人の地域に縛られない生き方」からすると、渡来してきた朝鮮の人びとが稲作を広めたわけではなく、そのときすでに日本にいた弥生人が、稲作の知識を外洋にいったときに得て、帰ってきて広めたと考えられるのではないでしょうか。

いや、それは考えられません。授業でもお話ししているとおり、縄文社会のものの考え方と朝鮮から入って来た弥生社会のものの考え方は、まったく違います。それゆえに長期にわたり、首長を突出させる社会的変化、戦争を前提とした環濠集落のあり方が、玄界灘…

弥生時代が500年近く従来より遡及して考えられるようになったことで、稲作が東へ広まってゆくペースがとても早かったという説に疑問が向けられたというのは、単に弥生時代が長くなったからという理由で合っているでしょうか?

遺跡から出土した遺物の放射性炭素同位体測定によって、早期と前期の年代が著しく遡及し、弥生時代の前半が長期間化したかっこうです。そのことによって、かつては100年余りの間に起きたと考えられていたことが、実際は数100年かかっていることがみえてきた…

弥生時代の始まりが大きく遡及するという発見は、なぜ高校の教科書に反映されないのでしょうか? / 従来縄文晩期とされた菜畑遺跡なども、いまは弥生早期に区分されるのでしょうか?

2015年に出版された山川出版社『詳説日本史B』では、縄文時代の最後に、コラムとして年代観の変更に言及されています。しかしそれほど詳しく書かれているわけではなく、またその変更によって全体の記述が書き直されているわけでもありません。授業でもお話…