2018-06-18から1日間の記事一覧

この時期ですら、ひとつの豪族に権力が集中することを抑制する仕組みができていたのに、なぜ平安時代には藤原氏の独占へと進んでしまうのだろうか。

結局、天皇制が維持された列島社会の場合、政権に関与する豪族・氏族のなかから一部の勢力が突出してゆくとき、契機になるのは大王家=天皇家との姻戚関係です。葛城氏しかり、蘇我氏しかり、そして藤原氏しかり。藤原氏の突出は、天武・持統の子である草壁…

古代日本にはヒメヒコ制と呼ばれる二重天皇制があったそうですが、大兄制と同じものですか?

ヒメヒコ制については、卑弥呼に関する質問でもすでに回答しましたが、男性=ヒコが世俗的政治を担当し、女性=ヒメが宗教的祭祀を担当し、両者で祭政一致の王権を担う仕組みです。大兄制は、大王位継承の世代内における順序の基準をなすものですので、まっ…

中学・高校時代に、5世紀の飯豊青皇女を扱いましたが、先生の授業でとりあげなかったのはなぜですか?

飯豊青皇女だけではなく、雄略を除いて、継体より前の大王(天皇)については扱っていません。少なくとも現時点で実在が確認されておらず、『日本書紀』や『古事記』の語る虚構に過ぎないからです。むしろ、高校や中学で飯豊青皇女を扱ったということが驚き…

「万世一系」とは、どこまでを指すのでしょうか。王朝ではなく王統の交替であれば、ある程度統一感はあるのではないでしょうか。

神武以来、現在に至るまでです。継体より前の系図では、雄略以外に実在を確定できる人物がおらず、その系図上の登場人物も、捏造し水増ししたことが明らかな大王たちも多数存在します。河内グループと大和グループとでは、血縁関係があったかどうかも不明な…

中国や朝鮮は、何度も王朝が交替しているにもかかわらず、過去の史料が残っているのはなぜなのでしょう。偶然残ったのでしょうか?

中国王朝においては、先行する王朝の歴史を客観的に叙述し、後世に伝えてゆくことがひとつの使命とされていました。編纂に当たる史官の立場からすると、その仕事が後世の学者たちに批判的に読み込まれることになりますので、天を基準にバランスを保ち、現王…

日本で文字が使用されるのはいつからなのでしょうか?

弥生時代の農具に、文字らしき「卜」という記号が書かれているものが出土しています。しかし、幾つかを連結して文章的なものが表されない限り、それを文字とは呼びにくい。そうなると明確なのは、ワカタケル=雄略に関係する金石文が初出、ということになる…

飛鳥の王朝にみられる、合理的な政治のあり方と、非合理的な神話や祭祀のあり方が共存しているところに、日本の奇妙な魔術性の根源があるように思われた。人びとが信じる神々が、彼らが無自覚な外部において政治へと収斂されてゆく統治の機構こそ、現代に至るその魔術性の基礎になっているのではないか。

深いですねえ。まさに、その仕組みが現在も機能している点が怖ろしいところです。明治の廃仏毀釈は、近世以前の神仏習合の伝統を破壊し、渾然一体となった寺社の信仰対象を分離して、神社の祭神を『古事記』『書紀』に出てくるような古典的なものへ改めてゆ…

蘇我大臣や物部大連の「臣」「連」には、どういう意味、違いがあるのでしょうか?

事典を調べれば分かることですが、「臣」は「大オホ」+「身ミ」で勢力のある一族の意味、「連」は「群ムレ」+「主ヌシ」で集団の首長の意味と考えられています。前者は多く地名を氏の名に持ち、その地域の豪族で大王家に臣属したものとみられます。一方後…

現在、蘇我や大伴、阿倍、中臣といった苗字の人が存在しますが、安直に飛鳥時代の豪族の子孫だと考えてよいのでしょうか?

列島に生きる人びとの苗字は、その後変転を繰り返します。古代においても、Aという氏姓を名乗っていた集団が突如Bという氏姓を名乗り始める混乱があり、そのつど朝廷がこれを正す系譜や帳簿などを作成しています。実は、序文に従うなら『古事記』もその一…

合議制に参加した有力豪族たちをみると、大王がいなくても支配が可能であったように思うのだが、どうして彼らは、大王や大兄を必要としたのだろうか。

授業でもお話ししたとおり、大王が利害の調整を体現しており、豪族たちは、その機能・権限を分有し王権を運営しているに過ぎません。もちろん、例えば蘇我氏が大王位に就いていたとすれば、大和グループの王/臣下の関係も流動的で、飛鳥時代においても大王…

大兄制に関して、王位継承をめぐる争いのなかで、厳密に大兄が付いているかいないか、ということで何らかの意味はあったのでしょうか?

結局、『日本書紀』に記載されている大兄が、当時存在したすべての大兄であったのかどうかが分からないので、この質問に回答することは困難です。例えばまさに聖徳太子、厩戸王は、用明大王と穴穂部間人王女の間に生まれた王子(来目皇子・殖栗皇子・茨田皇…

「血縁原理の導入」とあるが、もともとは中国や朝鮮のものだったということでしょうか?

実力主義で推移していたと考えられるヤマト王権の継承原理に、中国王朝で使用されていた父系直系継承をはじめ、王朝を血縁によって運営してゆく仕組みが導入されてくるということです。弥生時代の段階からお話ししているように、邪馬台国からヤマト王権にお…

聖徳太子の話のように、嘘だと分かっていることが、どうして教科書で教えられているのでしょうか?

さて、どうしてでしょうか。全学共通日本史という授業で、何度も発し答えてきた問いです。まず、日本の小中高の教科書は、文科省の検定制度のもとに動いています。この制度は、GHQの占領期、国家が皇民を教育するために国定教科書を用いてきた仕組みを改め、…

ローマでは、支配者が持つべき徳というものがありましたが、飛鳥時代にそうしたものはあったのでしょうか?

これ以降、天皇も中国の皇帝に倣い、儒教的な徳を身に付けてゆくことになります。持統天皇の孫、珂瑠皇子=文武天皇を教育するために編纂された、『善言』という書物の断片が、『日本書紀』のなかに含まれていることが確認されています。これは偉人や英雄の…

『日本書紀』はもともと『日本紀』が書名だったとする考えがありますが、その違いは何ですか?

六国史における奈良時代の史書『続日本紀』は、『日本書紀』の成立を語る最古の史料ですが、そこでは書名を『日本紀』としています。以降の六国史もみな『○○紀』という表記であり、『日本紀』が本来の書名だろうという見解が強くあります。しかし一方で、古…

飛鳥のような狭小な地域で、どのように首都機能を果たしえたのでしょうか。

飛鳥自体は、三方を丘陵・山地に囲まれた狭小な地域ですが、西を葛城を超えて河内へ出る横大路、東を長谷から伊賀、伊勢へと繋がってゆく山田道、北を奈良山を越えて山背・近江、東方・北方へと連結する下ツ道、中ツ道といった交通路へ通じている。さらに天…

飛鳥時代、書物によって、いつ何が起きたのかが安定していないのはなぜなのか。また、間違った年を書いてどうしたかったのかが分からない。

史料によって、ある出来事の年数や内容が食い違うことは、別段不思議なことではありません。そのなかのどれかが間違っているか、あるいはあえて異なる記述をしているか、ということです。継体/欽明の崩御・即位を巡っては、『日本書紀』が編纂された時点で…

王位継承をめぐる対立があり、実際に誰かが王になったとしても、税を納める農民など一般の人びとは、どの人が王になったと知らされていたのでしょうか。もしそうでなければ、何のために王位に拘るのでしょうか。

王の代替わりは、ヤマト王権に服属していた豪族たちには、間違いなく知らされていたと考えられます。前回お話しした奉事の関係もあり、大王と自らとの臣属関係を更新する必要があったからです。例えば出雲国造は、その代替わりごとに中央へ登り、天皇への服…

天皇のなかでも、大友皇子や草壁皇子のように、即位をしていなくても○○天皇として位置づけられる例がありますが、誰がどのように判断しているのですか?

大友皇子が弘文天皇と諡を献じられたのは、明治になってからのことです。近代における天皇家の神聖化のなかで、政治的に配慮された結果です。また草壁皇子は、天平宝字2年(758)8月、淳仁天皇によって「岡宮御宇天皇」として追諡されます。当時、奈良王朝…

継体は北陸のグループであったとのことですが、実力があったと判断できるのはなぜでしょうか?

それ以前の実力重視の王権において、大和でも河内でもない、これまで大王を輩出していない地域から選ばれて即位したからです。万世一系を建前とする『日本書紀』が、武烈からの断絶を語り、「応神天皇五世孫」として掲げてくるわけですので、実際はそれまで…

神社や寺院は、奉祀する神格など勝手に決めていいのでしょうか?

6世紀初頭になると、ヤマト王権内部に祭祀を管理する部署ができたらしく、各地の祭祀遺跡で神祭りの道具が、滑石製模造品による刀剣・玉・有孔円板(鏡)のセットに統一されてゆきます。以降、これからお話をしてゆく神統譜の作成、国家が幣帛を頒布する対…

神社の起源は玄界灘の沖ノ島での自然祭祀であったが、そもそもは中国から伝わったと考えることは可能か? なぜなら、「神社」は音読みであるので。

まず、ぼくの話し方が悪かったのだと思いますが、沖ノ島がすべての神社の起源になるわけではありませんので、間違いのないように。4世紀、日本各地で類似の自然祭祀が始まるということです。これらは、当初は専用の社殿などを設けず、露天で行われていたこ…

銘文の彫られた鉄剣をみると、為政者が自らの正当性・正統性を記録した文献があってもおかしくないように思われる。なぜ『古事記』や『日本書紀』以前に存在しなかったのだろうか?

『古事記』『日本書紀』の前には、推古朝の『天皇記』『国記』、そしてそれらの素材になった、「帝紀」「旧辞」といった文献の名称が、実体は不明なものの記録に残っています。「帝紀」は大王の系譜、「旧辞」は宮室・朝廷・有力氏族の伝承で、『古事記』や…

『梁職貢図』は、なぜ実際に来てもいない倭国使を描いたのでしょうか。

南朝勢力は、北方の胡族王朝に対して、自分たちこそが正統な漢民族の王朝、中華王朝の後継者であるという意識を強固に持っていました。倭は劉宋時代に朝貢していた冊封国ですから、現在は国交が樹立されていなくても、理念上は宋→斉を継承した梁の配下である…

古墳時代に築造された多くの古墳は、被葬者の支配していた土地や権力と関わりがあったのでしょうか。近畿など、近いところに古墳が乱立しているようにみえます。

基本的には被葬者の、あるいはそれを受け継ぐ首長の支配領域に構築されたと考えられています。ヤマト王権の大夫層=群臣層の説明のところでも説明しましたが、奈良盆地のなかでさえ、あれだけ強大な複数の豪族たちが存在するのです。彼らもそれぞれ前方後円…

ヤマト王権(雄略期)の支配領域について、東国〜九州とのことでしたが、このとき、東北には蝦夷がいたのだろうと思います。平安では戦闘になっているのに、この時代はそうはならなかったのですか?

以前の回答でも少し書きましたが、東北では古墳前期から、太平洋岸地域に前方後円墳が確認でき、縄文時代以来の西方との社会的相違のなかで、しかし首長制社会へと移行する集団があったことが窺われます。しかし、飛鳥時代以降の蝦夷の活動をみると、そこに…