2018-06-25から1日間の記事一覧
大王=天皇、王族を除けば、中国ほど明確ではありませんが、それらしきものはあります。例えば、蘇我馬子を「島大臣」と呼ぶのは本拠のある地名で呼んでおり、蘇我入鹿を「鞍作」と呼ぶのは養育氏族の名称で呼んでいます。ともに、その人物を直接指す本名で…
蘇我氏内の諸勢力が強力になっていた分、それを充分に統括することができれば並ぶもののない権力を維持できますが、分裂してしまうと幾つかの氏族が対立するのと同様の情況になってしまうわけです。事実、本宗家が滅亡したあとも財政を握っていた倉山田家が…
エミシとは、もともと勇猛で強力なひとを意味する言葉です。東国は肥沃でそこに活動するひとは強力であるとも意味から、この呼称が発生しています。ゆえに、奈良時代の有力貴族でもエミシを名乗るひとは散見されます。問題はその漢字表記で、中華思想のもと…
上の回答でも書きましたが、私も、中央集権化の改革は当初蘇我氏が担っていたと考えます。乙巳の変は、その主導権を大王家へ奪取するクーデターであった、ということです。入鹿による山背大兄暗殺は、蘇我氏内部の問題に端を発していますが、実は古人大兄や…
憲法十七条については授業では詳しく触れませんでしたが、隋の成立に伴う国際的緊張のなかにあった推古朝の朝廷において、中央集権化へ踏み切ろうとする蘇我馬子の改革のなかで、それに近いものは実際に作られた可能性があります。内容は儒教や仏教の道徳を…
もちろん、伝記も重要な史料です。問題は、個々の文書の性格ということで、「伝記」といったカテゴリー一般に不正確な属性があるわけではありません。ただし、その人物に対して豊富な記述をしてゆくなかでソースの不透明なエピソードが大量に用いられていた…
聖徳太子信仰は、『日本書紀』編纂のあとの奈良時代、初めての女性皇太子であった阿倍内親王(孝謙・称徳)の即位に利用されて活性化しました。仏教に帰依した皇太子像を援用することで、性別を超越したありようを目指そうとするんですね。その後はとにかく…
関係あります。これから藤原京、平城京のお話をしてゆきますが、せっかく前者を造営しておきながら10年ほどで後者を建設するのは、まさに「君子南面」が克服すべき課題となったからでした。次回をご期待下さい!
授業でもお話ししましたが、聖徳太子による対等外交云々が最初に教科書に登場するのは、大正9年(1920)の『尋常小学国史』でした。これは、大正10年の裕仁皇太子摂政就任と聖徳太子1300年遠忌が重なったことから、「摂政」聖徳太子の事跡を神聖化し喧伝す…
「無礼な手紙を書いても怒らないだろう」というのでは、何のために隋に使節を送ったのか分かりません。しばらく中国王朝と接触のなかった倭としては、隋の先進的な知識や技術、文物を受容し、半島諸国に比肩しうる古代国家を構築したかったはずです。隋を挑…
7世紀前半以前の人物について、同時代史料がみつかるほうが希です。そうしたなかで厩戸王は、7世紀後半〜8世紀前半にかけて、多くの金石文や伝世史料を残しています。同時代ではない可能性が高いとはいえ、非常に特別なことです。この時期、厩戸王を神聖…
厩戸王は、蘇我馬子が大きな力を帯びていた推古朝の朝廷においては、用明大王を父に持ち、蘇我氏系の王族穴穂部王女(欽明大王の娘)を母に持ち、大兄の称号を冠されていた可能性もあって、王位継承の序列もそれなりに高い人物でした。業績として確実なのは…
『日本書紀』には、「河伯」という語は2回しか出てきません。ひとつが授業で紹介した仁徳天皇の時代とされる茨田堤の造営記事、もうひとつは皇極朝、祈雨に際して河伯を祀るとの記載が出てきます。いずれも中国的色彩の強い内容で、すなわち志怪小説など、…
もちろん、現在に至るまでアニミズム要素は残存しています。ただし、このような神殺し的なものも存在しますので、以降の時代、権力その他の誘導の仕方によって、両方の要素が繰り返し出現することになります。また授業でお話ししますが、天皇の存在などは、…
そのとおりです。卜占の官が神話=歴史を叙述・管理することは日本でも受け継がれ、卜部=吉田家は日本紀注釈の家となり、最終的にはそこから発展して、吉田兼倶に至って唯一神道=吉田神道を生み出してゆくことになるのです。
アヤは「漢」と表記したり、「書」「文」と表記したりします。恐らくは5〜6世紀初めに朝鮮半島から渡来した人びとのうち、もともとは漢人で、南北朝の動乱から半島へ亡命してきたと考えられた人びとを、「漢」氏で統括し配置したものでしょう。南北朝の中…
前提として、国と国との関係を、現在のような国民国家、近代国家どうしの関係のように考えないほうがよい、ということです。九州北部地域の豪族たちは、これまで弥生、古墳時代とお話ししてきたように、ずっと朝鮮半島と緊密な関係を築いてきました。心情的…