2018-07-03から1日間の記事一覧

「郡」「評」の相違は、飛鳥時代と奈良時代の境目であると、高校で習ったような気がします。持統朝で「評」表記の木簡がみつかった、ということに疑問を持ちました。

どこかで誤解があるのかもしれませんが、持統朝は時代区分でいえば、未だ飛鳥時代です。「評」表記は飛鳥浄御原令に基づくものとみられているので、大宝令施行以前はこの表記が用いられているのです。

「天皇」の語が「天皇大帝」に由来するなら、それは中華なる概念を日本に導入したことを意味するのでしょうか。

中華概念については、大化の改新以降に順次導入されてゆきます。とくに、須弥山像を宮都の飛鳥に築き、同地が仏教的な意味で世界の中心であることを宣言、エミシやハヤトを呼び寄せて服属儀礼を行い、それを通じて中華皇帝に対する「夷狄」を創出したことは…

大友皇子が「弘文天皇」と呼ばれるのは、なぜなのでしょうか。 / 大友皇子は即位したのでしょうか?

大友皇子が即位したかどうかは諸説ありますが、私見については上の回答を参照してください。なお、「弘文」の漢風諡号は明治3年になってから、明治新政府の解釈に基づきあらためて奉呈されたものです。

大友皇子が最初の太政大臣と聞いたことがあるのですが、不確かであるというのはどういうことでしょうか。

『日本書紀』天智天皇10年春正月己亥朔庚子条には、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣、大友皇子をその上に立つ太政大臣として、その首班体制がスタートしたことが記されています。しかし、太政大臣は太政官組織が律令によって規定されて以降、出現すると考…

大海人皇子は当初は皇位継承を辞退したと聞きました。とすると、大友皇子との衝突は周辺勢力の圧力が大きいのではないかと思うのですが、調べる価値はありそうでしょうか。 / 吉野へ隠棲した大海人は、大津朝廷に対し政権奪取を目論んで行動していたのでしょうか。 / 天智が中国王朝化を志向し、それゆえに父系直系継承を目指したように、大海人も中国の諸制度を参考にしたと思うのですが、自分の即位に関わるとなると、そこは矛盾した行動を取ってしまうのでしょうか。

そうですねえ…大海人が本当に王位を継承する意図があったのか、それとも大友皇子に殺害されるのを恐れてやむをえず挙兵したのか、そのあたりのことはよく分かりません。しかし、彼が壬申の乱を負い目に感じていたことは確かで、ある意味では、天皇も律令国家…

以前関ヶ原に行った際、壬申の乱の激戦地といった碑をみました。天下分け目の戦が二度も同じ場所で行われたことに驚いたのですが、何か地理的な面で戦場になりやすい土地だったのでしょうか。

激戦地というより、大海人が本陣を置いた野上行宮伝承地がある、ということだと思います。付近の不破関が、近畿と東国を分かつ境界でしたので、授業でもお話ししたとおり、同地を閉塞することが大海人の勝利する第一条件でした。それを速やかに達成して、大…

壬申の乱における地方豪族の不満に人口調査を関連づける考え方は、非常に興味深いと思いました。実際、豪族たちが具体的に中央政治の何に不満を持っていたか、示されている史料はあるのでしょうか?

残念ながら、それを直接的に示してくれる史料はありません。ただし、壬申の乱における近江朝廷の脆弱さは、その点を端的に表しているのではないでしょうか。実はこの内乱、両軍とも、庚午年籍に基づく徴兵によって得た兵力を用いて戦闘を行いました。大海人…

ある歴史番組で、大海人/大友の対立には、国際的な問題が絡んでいると放送していました。大友を支える官僚には百済系が多く、大海人は大友の政策が唐の侵攻を誘発するものと危惧していたとか。先生はどう思われますか?

壬申の乱に、国際的な緊張状態が強く反映していたことは確かでしょう。しかし、例えば天智が自らの王朝に内包した亡命百済人たちが、果たして近江朝廷のために積極的な役割を果たしたのかといえば、その痕跡はあまりありません。うち最高位であった沙宅紹明…

壬申の乱と庚午年籍を関連づける義江彰夫説は面白いと思うのですが、なぜ王が人民のひとりひとりを把握することが、『旧約聖書』でタブーとされていたのでしょうか。 / 日本列島の情況と『旧約聖書』の状態を、それほど簡単に結びつけていいのでしょうか。

『旧約聖書のフォークロア』を著したフレーザーは、首長制から古代国家へ展開する段階での首長と共同体との関係の軋みを、多くの民族社会に普遍的なものと捉えているのです。弥生時代のところでお話ししたように、共同体の結束を重視する社会では、成員の平…

庚午年籍の作成は、実際にはどのように行われたのでしょう?

非常に難しい問題です。改新政府の政治改革によって、これまで国造へ委任統治されていた各地域へ国・評・五十戸の行政機構が作られてゆき、国造は自らの支配領域を評として立てることで、その管理者である評司(のちの郡司)へ転換していった。天智朝に至る…

戸籍を定めて人びとを管理したいという気持ちは分かるが、読み書きのできる人は少ない時代で、どのように管理していたのだろうか。

古墳時代の屯倉などへも、文筆をよくする渡来系のフミヒトと呼ばれる人々が奉仕し、文書行政を担っていました。もちろん、全国的ということになれば、さまざまに無理があったものと考えるのが妥当です。庚午年籍は全国的なものではなく、王権の直轄地や中央…

戸籍が作成されたあと、戸籍登録者と無国籍者とは、どのように共存していたのだろうか。

奈良朝の律令体制以降も、戸籍が定期的に編纂されるなかで、海や山にはそれらに貫付されない人々が、狩猟漁労その他を生業に、半ば移動をしながら生活していたと考えられます。稲を経済的単位の根本に据えた稲作至上主義のなか、水田耕作に従事しないこれら…

庚午年籍について。それまで戸籍がなかったということは、大王の統治はどのように行われていたのでしょうか?

授業でもお話ししましたが、地方では、その地域の在地の有力豪族を国造に任命し、委託統治を行っていました。その段階では、民衆ひとりひとりに定額の租税と労役を課す個別人身支配ではなく、国造が支配地域の複数の共同体を統括し(一部は自らの私有民とし…

日本は飛鳥時代、これほど異文化を受け入れていたのに、平安時代以降に閉鎖的になってしまうのだろうか。

そんなことはありません。今年は平安時代を詳しく扱う時間は持てませんでしたが、「菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、外来文化が入ってこなくなることで国風文化が栄える」といった考え方は、誤りであることが指摘されています。実は、道真の建議を…

亡命百済人を受け入れることが、どうして「日本」という国号に関係するのでしょうか。 / 倭が百済と合体して大王が天皇になったのは、百済の権威が日本において大きかったからでしょうか。

どこかで指摘したと思いますが、中国王朝や朝鮮諸国においては、滅亡したかつての王国や、自らが滅ぼした王朝の存在をその支配体制に取り込むことで、自国の正当性/正統性を主張することがよく行われました。倭も同じように百済王家を取り込み、これまでの…

受け入れた百済の難民はどの程度の数だったのでしょうか。

『日本書紀』天智天皇4年2月己酉朔丁酉条には、百済王族に倭の位階を授け、百済の百姓の男女400人余りを近江国神前郡に貫付したことがみえます。また、同5年是冬条には百済男女2000人余りを東国へ移植させたこと、同10年11月甲午朔癸卯条には、唐使郭務悰…

白村江の戦いについて、倭は本当に勝算があったのでしょうか。それとも百済との関係上、出兵せざるをえなかったのでしょうか。

これについては、謎が大きいですね。倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、それほど水軍戦に経験が豊富だったとは思われません(もちろん、海上交通や対外軍事に…

唐はなぜ、百済や高句麗に介入したのでしょう。朝貢していた国には政治へ介入しない、という考え方を中国はしていた、と本で読んだことがあります。

中華を統一した隋や唐にとって、朝鮮半島の経営は重大な関心事でした。高句麗は一応は中国王朝に冊封される立場でしたが、領土をめぐり緊張関係は常に持続しており、小さな衝突は続いていました。唐は、東突厥や高昌を滅ぼして北方・西方を平定したのち、631…

朝鮮三国が、別々の方法で中央集権へ向かったことが面白いと思いました。なぜ三者三様なのでしょうか?

高句麗・百済・新羅、それぞれの王国の特徴と、その時代の状態が表れている、ということでしょう。高句麗は、三国のなかで最も古く、古朝鮮を受け継ぎその復権を果たさねばならないという意識を、濃厚に持った国であったようです。半島と中国王朝との境界を…

孝徳朝から天智天皇の時期に謀反の疑いで殺されたひとのなかに、本当に謀反を企てていた人はどれくらいいたのでしょうか。

これはもう解釈論になりますので、正確なことは分かりません。しかし、実力主義の社会の名残があったとはいえ、政権首班の蘇我本宗家が滅ぼされた衝撃は大きかったはずですし、東アジアの国際的緊張が高まっていることも、支配層には自覚があったはずです。…

日本に儒教が入ってくるのは飛鳥時代なのに、本格的に日常生活に取り込まれるのは江戸時代に入ってから、というのはどうしてですか?

授業でもお話ししましたが、現在では当たり前の道徳のように考えられている長幼の序、君主に対する忠、父祖・両親に対する孝、友人に対する義などが、儒教の教えが浸透する以前の倭においては、必ずしも自明の道徳・倫理ではなかったのです。ゆえに、これら…

古代の日本の権力者はきらびやかな装飾品を身に付けていますが、平安時代くらいからそうしたことがなくなるのはなぜでしょうか?

難しいですねえ。NHKドラマの『大化の改新』は、藤ノ木古墳などの発掘によって浮かび上がってきたきらびやかな装飾品、その他高松塚古墳の壁画、隋唐の中国資料を参考にしながら衣裳デザインをしていると考えられますが、日常的にあのような装飾品を身に付け…

暗殺事件を起こした人物は何らかの処罰を受けるものだが、中大兄や中臣鎌足は処罰を受けたのか?

授業でもお話ししましたが、刑法を規定した律は、奈良時代においても規定どおりには運営されていません。律令国家は法治国家の体裁を整えていますが、その内実は天皇家と一握りの畿内豪族による専制体制であり、生殺与奪の権限も、法律以前に彼らの手に掌握…

蘇我倉山田石川麻呂は、本家ではないとはいえ蘇我氏の人間なのに、乙巳の変に関わることは大丈夫だったのでしょうか?

乙巳の変の前段階でみたように、それをいうならば、蘇我蝦夷は氏族中第2の地位にあった境部臣摩理勢を自殺に追い込み、入鹿は山背大兄王を自殺に追い込んでいます。蘇我氏内部が内紛状態になり、この当時中立的な立場を貫いていた倉山田家は、最終的にクー…

畿内の豪族たちの歴史をもって「日本史」とすることに非常な違和感があります。『書紀』を史料として用いる限り、万世一系の天皇制イデオローグの呪縛からは逃れられないのではないでしょうか。

仰ること、よく分かります。飛鳥・奈良・平安になると、短い時間のなかで語らなければならないことも多く、どうしても内容が中央政治偏重になってしまい、その意味でも問題があるな、と自覚しています。なお『日本書紀』の問題ですが、書かれていることはそ…