2019-05-13から1日間の記事一覧

当時の人々は、大陸から来た人々と、どのように会話をしていたのでしょうか?

玄界灘から日本海南側までを挟んだ九州〜山陰地方と、朝鮮半島南部との間には、古くから海上交通を介して交流がありました。北九州のみならず、山陰から北陸地域にかけての弥生遺跡からも、半島から将来されたと考えられる遺物が多く出土しています。例えば…

なぜ、時代によって墓の形式が変わるのでしょうか?

現代の日本でもそうですが、墓が必ずしも個人のみによって作られるものではなく、社会的な産物であるため、時代の移り変わりを映す鏡になっているためです。例えば現在では、かつて近代の家制度を反映して主流であった家族墓に対して個人墓が増え、また樹木…

青銅器は、最初と最後では、なぜ使用の仕方に相違が生じたのでしょうか? 長く使われたものには霊魂が宿るという、付喪神的な発想でしょうか? / 青銅器が実用的なものから祭器的なものへ変化するのは、その地域が裕福になったためですか?

青銅器は、弥生時代の日本列島においては極めて貴重なものでしたので、実用品が半島から将来されたときにも、その価値は木材や石材を用いた道具類より高く、平準化された共同体においては、全体で共有する宝器的位置づけ、階層化された社会においては、一部…

弥生時代初期の水田開発に際して行われた森林伐採は、青銅器によって行われたのでしょうか、石器によって行われたのでしょうか?

正確には分からないことも多いのですが、樹木の伐採は、実は縄文時代の石斧でも充分に可能なのです。こちらのページでみられるように、実験でも確認されています。縄文時代の回で写真をおみせしたように、縄文前期の三内丸山遺跡の時点で、すでに栗の大径木…

卑弥呼の前には男王たちが何人もいたと思うのですが、なぜ女王が突然現れ、また注目されたのでしょうか?

よい質問ですが、なかなか難しいですね。ひとついえるのは、恐らく女王は卑弥呼ひとりではなく、その前にも存在した可能性が高い、ということです。清家章氏らの研究によると、弥生〜古墳時代にかけての首長墓、およびそれ以下の階層の埋納人骨を調べてみる…

王権が成立したのが3c半〜4c後半と、中国に比べて遥かに遅いのに、日本はなぜ独立を維持できたのでしょうか?

いろいろ複雑な要因があるとは思いますが、まずは地理的な条件でしょうね。中国王権にとって、どのような地勢の島で、どのような産物(農作物から鉱物まで)があり、どのような国や共同体が存在し、交通することがどれほどの利益になるかが正確に想定されな…

弥生時代に農耕が進んでゆくうえで、必ずしもすべての土地が農耕に向いていたわけではないと思う。そうしたところには、共同体は形成されなかったのか?

重要な質問です。まず、原始的な農耕の痕跡が認められるものの、基本的には狩猟採集社会であった縄文の集落は、水辺と山麓・森林地域を往来しやすいような台地・丘陵上に営まれるのが一般的でした。また縄文の人びとは、獲物を追って、比較的高地の山々にも…

燕の二枚舌外交の詳細について教えて下さい。

燕国における公孫淵の政権は、太和2年(228)、叔父の恭の地位を簒奪することによって始まっています。父親の康の代には、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置し、西は烏恒、東は高句麗・扶余、南は遼東、山東に及ぶまでの一大勢力圏を築き上げていました。…

首長と王の相違は何ですか?

弥生時代には文献資料が存在しませんので(漢籍以外)、想定によるところも多いのですが、基本的には、ピラミッド構造の階層社会をある程度実現した集落単位のリーダーを首長、幾つかの集落を束ねる広域のリーダーを王、と読んでいます。王のなかでも、各地…

魏が邪馬台国を重視したのは、何のためだったのでしょうか?

中国史においては、群雄割拠の時代によく採られる外交政策として、「遠交近攻」策があります。文字どおり、遠国と誼を結んで近国を攻撃する、というものです。三国時代後半の魏においては、まずは頻繁に「北伐」を仕掛けてくる諸葛亮の蜀、そして東シナ海の…

そもそもなぜ日本では、米が政治に絡むようになっていったのでしょうか?

この問題については、いずれテーマ別解説のところで詳述するつもりですが、まず灌漑稲作農耕が、いわば階層化社会・戦争・金属器、関連する儀式・祭祀などが複雑に絡み合った、総合的な文化として将来されたことが大きいと思います。授業でもお話ししたとお…

B.C.1c頃には銅矛や銅鐸、銅剣の文化圏にあった出雲や吉備が、A.D.2cには墳丘墓の祭祀に移行してゆくのは、近畿や北九州から独立し、独自の文化を営んでいったからといえるのだろうか?

もともと、北九州と近畿という大きな2つの政治グループに挟まれ、その影響下にあったのが出雲や吉備です。しかし、日本海側から独自に朝鮮半島の人、モノ、情報を輸入できたこともあり、次第にそれらへの依存から脱して、独自の方向へ進み始めます。その際…

花粉分析の方法によって、正確に過去の気温が分かるとは思えません。どのような科学的根拠があって、使用されているのでしょうか?

授業でもお話ししたとおり、古気温曲線を構築するための花粉分析は、過去の正確な気温を算出するためのものではありません。1年ごとの相対的な変化が分かればよい、という程度のものです。例えば、尾瀬沼という限定的空間の内部であれば、沼地の滞留によっ…

遺物や遺跡から得られる情報で研究するのは、考古学に属することですか、歴史学に属することですか?

歴史学は、主に文献資料(文字で書かれた記録)=史料を素材に、過去について追究します。考古学は、文字記録がない時代も含めて、発掘によって確認された遺跡・遺物を通じて、過去を追究してゆきます。よって、質問の答えは「考古学」です。ただし、同学問…

人間は何がきっかけで銅などの資源をみつけ、それを熱してモノを作れることを見出したのでしょうか?

これは史料が残っていないわけで、まったくの想像でしかないわけですが、火山の噴火や山火事などの際に、金属の溶融現象が見出されたのだろうと考えられています。そこから、いかなる石が溶融によって器物に仮構できるのか、すなわち金属関係の鉱石が種々発…

稲作について、直播き→田植え、湿田→乾田といった変化は、いつ何が原因で起きたのでしょうか?

近年の菊地有希子氏による栽培実験データでは、直播きよりも移植栽培のほうが、移植密度が高いほど収穫量が多くなるとの結果を示しています。これを念頭に置いて、関東近辺の弥生集落の食生活における米食の割合を考えてみると、弥生中期後葉の埼玉県熊谷市…

邪馬台国の位置について、さまざまな地図をもとに『魏志倭人伝』の記述を検証する作業が行われていますが、当時の人々の地理的感覚は正確ではなかったのでしょうか?

いわゆる『魏志倭人伝』の記述は、他に比較すべき同時代史料のない孤立したものです。それゆえに、一層厳密な史料批判が必要なわけですが、これまでは逆に、孤立しているがゆえにその記述に縛られてしまう、ということが多くありました。『倭人伝』の記述を…