2019-05-20から1日間の記事一覧
弥生〜古墳移行期の大阪平野は、未だ大半が淡水湖の河内湖(草香江)か、もしくは大和川水系、淀川水系から流れ込む水により低湿地化していました。河内の古墳グループは、いずれもこのような低地が丘陵にかかる高燥な地帯に存在しており、渡来系の人びとの…
時代のそれぞれの局面において、〈実力〉の意味するところは異なっていたのではないかと思われます。しかし、経済力、軍事力、あるいは祭祀などを通じた呪術的能力、それらは最終的には政治力に収斂されてゆくのでしょう。百舌鳥古墳群、古市古墳群を形成し…
埋葬施設を、土砂・石材・木材などによって丘陵を築き、表現しているのが墳丘墓です。その意味では、古墳も墳丘墓の一種といえます。しかし、また別の区分の仕方では、弥生時代以前の墳丘墓をそのままに呼び、当時の知識・技術、政治性・社会性・経済性・宗…
朝鮮三国は、倭と競合して劉宋に将軍職を求めており、やはり『宋書』列伝/夷蛮伝に、高句麗王は征東大将軍、百済王は鎮東将軍に叙任されていることが確認できます。つまり、高句麗も百済も、そしてヤマト王権も、劉宋のレベルでみると〈幕府〉なのです。な…
面白い質問ですね。なかなか回答が難しいのですが、必ずしも上下の地位関係ではなく、質的に近づいたということができるでしょう。縄文時代の終わり頃には、授業でも触れたように、祖先らしきものへの信仰が始まっていました。後ほどまた扱いますが、縄文時…
前方後円墳の北端は、岩手県胆沢郡胆沢町の角塚古墳(6c初、古墳後期)で、全長約45メートルの規模です。同時期の畿内大王墓、継体天皇陵とも推測される今城塚古墳が全長約190メートルなので、1/4ほどの較差となります。東北の場合、角塚古墳以南には、約70…
ヤマトが東アジア的な政治を行っていたという考えは、後世にその種の史料を解読できるようになってから生まれたものと思うが、古墳時代の当時、外国の文献を解読できる人や、外国との交流を図れる人は存在したのか?
「東アジア的な政治」というのは、劉宋に対して朝貢していたこと、朝鮮三国と競合していたことでしょうか。もしそうならば、授業でもお話ししましたように、これは後世の評価ではなく、同時代的な事実です。倭王武の上表文は、『宋書』列伝/夷蛮伝の掲載で…
河内の古墳群に限らず、まず陵墓に選定されている古墳については、その学術調査の可能性について、長く宮内庁と歴史・考古関係の学会とが折衝を続けてきた歴史があります。その結果として、これまで立ち入りさえ許されなかった場所への踏査が許可されたり、…
『宋書』夷蛮伝によれば、百済はすでに、東晋末期の義煕 12年(416)、「使時節、都督、百済諸軍事、鎮東将軍、百済王」の称号を得ています。これは基本的に劉宋期にも踏襲され、以降毎年献物をもって朝貢したとのこと。百済は、倭以前に宋と冊封関係にあっ…
授業で紹介した稲荷山古墳出土鉄剣銘にしろ、江田船山古墳出土大刀銘にしろ、地方の有力者が、王権の職務を世襲的に担っていたことを伝えています。また、杖刀人にしろ典曹にしろ、ワカタケル大王の「斯鬼宮」へ出仕する役職でした。すなわち、東国からも九…
この「if」はなかなか難しいですね。かつては弥生から古墳にかけての変化は、まさに温暖期の出来事として説明されていました。単純に、稲米の収穫の増大→余剰生産物の増加→貧富の拡大→富者の権力拡大→突出した首長の誕生→王の出現、と理解していたわけです。…
ちょっと質問の意味が取りにくいのですが、中国の始皇帝陵なども、広大な墓域にピラミッドのような墳丘が造営されていますね。日本の古墳では、前方後円型以外に、恐らくは仏教思想などに基づくと考えられる陵墓の八角墳、天円地方の思想に基づくと思われる…
4〜5世紀の倭国=ヤマト王権が、実質的にどの程度の武力を有していたのかは、漢籍、朝鮮半島の碑文等に断片的な記述を確認できるばかりで、明確ではありません。ただし当時の王権が、鉄の供給地として重視していた半島南部における利権を維持するため、何…
府官制の問題でしょうか。将軍の場合、対処すべき事案によって与えられる権限に増減がありますが、単に制圧先が西か東かだけで待遇が変わるということはありません。古代から中世にかけての日本の場合、すでに九州については大宰府が置かれ制圧がある程度完…