2019-05-27から1日間の記事一覧
倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。史料的に確認できるのは、広開土王碑文や倭王武上表文にみえる5世紀後半までです。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、船を用いた水軍戦について、経験が豊富…
まず、中国皇帝の理想的なあり方として、中央にある文明を周縁の蛮族に浸透させ、すべてを文明世界に発展させてゆくという使命があります。これを正当性の根拠に、歴代王朝の皇帝たちは中華世界を、そして周縁への征圧戦争と服属、朝貢の獲得を推進していっ…
太陽の運行と月の運行に基づく、時間認識、季節認識はあったものと思われます。『隋書』巻81 列伝/東夷/倭国条によると、開皇20年(600)、倭は隋へ使者を派遣し、煬帝に謁見しています。そのときの記述に、次のような一節があります。「 倭王、姓は阿每(…
われわれがいま考えるような〈日本人〉というアイデンティティーが成立するには、奈良時代の三国伝来思想、中世の神国思想、近世の国学などいろいろな画期がありますが、やはり社会一般において構築されてゆくには近代を俟たねばなりません。古代においては…
身も蓋もないいい方ですが、これは偶然性に左右されるところが大きかったかもしれません。蘇我本宗家は、馬子から蝦夷への権力移譲の際に不安要素があり、内紛によって有力な家を幾つか失ったこと、入鹿の実力行使が過激でやはり自身の勢力の縮減に繋がって…
まず、当時の〈東国〉は不破関より東、現在の中部地方から関東に至る地域を漠然と意味していました。『日本書紀』景行天皇27年春2月壬子条には、「武内宿禰、東国より還りて奏して言さく、『東夷の中に、日高見国有り。其の国人の男女、並に椎結文身し、人…
授業のレジュメにも書いておきましたが、660年、蘇定方率いる10万の唐軍、金庾信率いる5万の新羅軍の攻撃を受け、義慈王は降伏して唐へ連行され、百済は一旦は滅亡してしまいます。その後、百済旧地の支配は在地豪族に委任されますが、同年末には百済の遺臣…
中国では、王朝が代われば別ですが、同一王朝では代替わりによっても、よほどのことがない限りは都は移動しません。古代の日本では、それが、天皇(大王)の代替わりごとに行われていました。一般にはこれは、中国などと比較して異常なこと、極めて非効率的…
公地公民の基礎をなす戸籍の作成は、地域社会における首長の権限を抑制し、その支配や、共同体の自律的活動に介入することでもあり、当初は強固な抵抗があったものと考えられます。授業でお話しした義江彰夫氏によるフレーザー『旧約聖書のフォークロア』の…
日本の遣唐使は、必ずしも冊封を求める朝貢の使者ではなく、その優れた文物を摂取すること、留学生・留学僧などを派遣すること、交易をなどを目的としていました。中華王朝にとって、日本のような辺境の国は、〈絶域〉と認識されています。近年まで、〈絶域…
7世紀の列島社会において、東アジアの国際的な変動は、中央に限らず各地方へも、少なからぬ影響をもたらしていたと考えられます。7世紀初頭までの地域社会は、同地の有力豪族が王権から国造に任命され委任統治を行う、あるいは県や屯倉などの王権の直轄地…
これは重要な点だと思います。古代の芸能者は宗教者と不可分であり、共同体のシャーマンとして、神霊に芸能を捧げその言葉を託宣する、あるいは共同体の歴史、父祖の伝承を演じ語るものであったと考えられます。ヤマト王権に奉仕する者は、特殊技能を持つ語…
日本では、「称制」は中大兄皇子(天智天皇)と鸕野讃良皇女(持統天皇)、「重祚」は皇極・斉明天皇、孝謙・称徳天皇しか例がありません。前者は、もともと中国において、皇太后が若年の皇帝を補佐し朝政を行うことをいい、後者は「祚」すなわち天子の位を…
非常に複雑な問題なのですが、背景には、唐の帝国的版図が大きく動揺し始めたことに原因があります。一時期唐に臣従していたチベットの吐蕃が、唐の注意が東方に向き始めた660年前後より拡大を開始し、白村江の戦いのあった663年、吐谷渾にあった傀儡政権を…
まず、この時期の王権は蘇我氏と一体化しており、蘇我馬子が朝廷を統括していた点を重視する必要があります。のちに、蘇我入鹿も蘇我氏の血を引く山背大兄を襲撃していますが、入鹿はむしろ、山背大兄が蘇我氏内部の人間であったからこそ、本宗家として混乱…
後ほど、トピックとして「聖徳太子」を取り上げ、そこで詳しく説明したいと思っているのですが、『日本書紀』の研究は、近年大きく進んでいます。例えば、現在の水準の基盤になっている森博達氏の研究によると、同書全30巻は、中国人が執筆したと考えられる…
授業でもお話ししましたが、政治が次第に庶民に対し、直接的影響を及ぼし始めたのが飛鳥時代に当たる時期です。いわゆる公地公民が、孝徳朝の時点でどの程度実施されたのかは疑問がありますが、例えば孝徳立評に関連する部分で、8世紀初めの『常陸国風土記…
授業でもお話ししたように、ヤマト王権の中心はかつては纒向周辺、すなわち飛鳥より北側の、より開けた盆地のうちにありました。一時期は、大王を輩出するグループが、朝鮮南部と結びついた河内方面へ移動しますが、6世紀以降は再び大和へ戻り、飛鳥へ南下…