2019-06-17から1日間の記事一覧

平安時代において、天皇が大極殿に出御し公卿と政治を行う状態から、天皇が日常的に起居する内裏へ公卿らが出向く状態となり、政治のミウチ化が進む一因となったと学んだ。しかしそもそも、なぜ最初は天皇から出向く形になっていたのだろうか?

飛鳥時代の氏族制政治においては、大王の経営する宮へ、国政を分担する畿内豪族のトップである大夫たちが集い、合議を行うのが通常の形式でした。やがて、中国の宮殿の形式を採り入れつつ、宮が政務の場所として拡充されてゆくと、宮の構造自体が変化し、ま…

財政が破綻しつつある時期、税収を増やす方法を考えるとともに、倹約令のようなものは出なかったのでしょうか。

倹約令が効果を持つのは、商業と流通が発達し、消費社会が一定の広がりを持ってからだと思います。奈良時代にも、商業・流通に根差す消費行動はありましたが、それは都市を中心とする、限定された領域と階層に止まっていました。そのため、「過差」すなわち…

天皇の中国皇帝化とありましたが、現人神であると考えられていた時代に、ある意味本国の神が他国に傾倒していると思われることはなかったのでしょうか(「西洋では異端を排斥しましたが、日本でも仏教を信仰せず、あまり一般的ではない宗教を信仰すると、同じような扱いを受けたのでは?」への回答も、ここに含むものとします)。

『日本書紀』欽明天皇13年(552)10月条から始まる仏教公伝、崇仏論争の記事には、神祇信仰を奉じる物部氏や中臣氏が、「我が国家の天下に王たるは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝することを事と為す。方に今、改めて蕃神を拝さば、恐るら…

藤原頼通の代で天皇との間に子供が生まれなかったことで、藤原氏の時代が終わりを迎えるのは、もっとどうにかできなかったのかと考えてしまう。そこまでの権力が、すでになかったのでろうか。

確かに、頼通以降摂関家の全盛時代は終わりを迎えますが、藤原氏の時代が終わったわけではありません。院政期も摂政・関白は藤原北家嫡流が継承してゆきますし、鎌倉以降はそれが五摂家に分派、近衛・九條・一條・二條・鷹司の各家から必ず太政大臣、摂政・…

平安の日記は文学というイメージが強かったが、最初の頃に書かれていた日記は、のちの子孫が参考資料として読めるようにしたもの、と聞いて驚いた。

平安時代に書かれた日記には、男性日記と女性日記があります。後者の方がいわゆる女流文学で、『蜻蛉日記』『紫式部日記』『更級日記』など。こちらは日記といっても、日次記のように毎日書き継いでいったというよりは、メモ的なものをもとにある時期に再構…

東大寺は、中国でいう石窟寺院を採り入れたという認識で正しいでしょうか。 / 東大寺が、平城京の内部ではなく外京にあるのは、何か意味があるのでしょうか。

石窟寺院、ではありませんね。龍門石窟をモデルとしたのは、あくまで盧舎那大仏の造立についてです。紫香楽で始まった盧舎那仏の造立は、方法こそ石刻/鋳造と異なりますが、都との位置関係、内包する思想など多くの点で、龍門の奉先寺を先蹤としているよう…

現代の一般市民の感覚からすると、天皇家や藤原氏の激しい政争には違和感を覚えます。争いに勝つことで、人生を賭けるほどの利益が得られるのでしょうか。

何を求めてどのように生きるかは、時代によっても社会によっても、そしてどの階層に属するのか、どんな職業を持っているのか、究極的には個々においても異なりますね。古代の貴族層においては、氏族、もしくは家を存続させること、儒教的な考え方に沿ってい…