2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧

なぜヤマト王権は、百済復興のために大規模な軍隊を派遣したのでしょうか? 勝算があると考えていたのでしょうか?

倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。史料的に確認できるのは、広開土王碑文や倭王武上表文にみえる5世紀後半までです。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、船を用いた水軍戦について、経験が豊富…

隋も唐も高句麗を攻めていますが、そもそも中国王朝は、朝鮮半島に対してなぜそれほどまで執着したのでしょうか。

まず、中国皇帝の理想的なあり方として、中央にある文明を周縁の蛮族に浸透させ、すべてを文明世界に発展させてゆくという使命があります。これを正当性の根拠に、歴代王朝の皇帝たちは中華世界を、そして周縁への征圧戦争と服属、朝貢の獲得を推進していっ…

ヤマト王権の時空支配の話が出てきましたが、当時、一般庶民に時間の認識はあったのでしょうか? 元号が大王ごとに変わっていたのでしょうか?

太陽の運行と月の運行に基づく、時間認識、季節認識はあったものと思われます。『隋書』巻81 列伝/東夷/倭国条によると、開皇20年(600)、倭は隋へ使者を派遣し、煬帝に謁見しています。そのときの記述に、次のような一節があります。「 倭王、姓は阿每(…

白村江の戦いなどで異国と戦ったことにより、「日本人」というアイデンティティーは確立されたのか? また、境界線が曖昧だった東北に対してはどうだったのだろうか?

われわれがいま考えるような〈日本人〉というアイデンティティーが成立するには、奈良時代の三国伝来思想、中世の神国思想、近世の国学などいろいろな画期がありますが、やはり社会一般において構築されてゆくには近代を俟たねばなりません。古代においては…

蘇我本宗家は権力集中に破綻したが、中大兄らの改新勢力はそのことに成功したようだ。両者の違いはどこにあったのか?

身も蓋もないいい方ですが、これは偶然性に左右されるところが大きかったかもしれません。蘇我本宗家は、馬子から蝦夷への権力移譲の際に不安要素があり、内紛によって有力な家を幾つか失ったこと、入鹿の実力行使が過激でやはり自身の勢力の縮減に繋がって…

白村江の戦いの後や壬申の乱の際に東国が重視されたように、ヤマト王権にとって東国の価値は高いものであったと考えられます。それはいつからのことでしょうか?

まず、当時の〈東国〉は不破関より東、現在の中部地方から関東に至る地域を漠然と意味していました。『日本書紀』景行天皇27年春2月壬子条には、「武内宿禰、東国より還りて奏して言さく、『東夷の中に、日高見国有り。其の国人の男女、並に椎結文身し、人…

白村江の戦いに際し、倭は人質の豊璋を帰国させ王朝を再建されたとありましたが、こうした倭の政治的介入について、百済国内では反発はなかったのでしょうか?(書きかけ)

授業のレジュメにも書いておきましたが、660年、蘇定方率いる10万の唐軍、金庾信率いる5万の新羅軍の攻撃を受け、義慈王は降伏して唐へ連行され、百済は一旦は滅亡してしまいます。その後、百済旧地の支配は在地豪族に委任されますが、同年末には百済の遺臣…

中国の方式に倣っているなら、皇帝の代替わりによって遷都が行われるのが普通と思いますが、日本の古代ではなぜそうなっていないのでしょうか?

中国では、王朝が代われば別ですが、同一王朝では代替わりによっても、よほどのことがない限りは都は移動しません。古代の日本では、それが、天皇(大王)の代替わりごとに行われていました。一般にはこれは、中国などと比較して異常なこと、極めて非効率的…

庚午年籍は、いったいどこからどこまでの地域を対象にし、正確性はどの程度あったのでしょうか? / 古代社会において造籍が反発を招くものだったなら、それが一般的になるのはいつなのでしょうか。(書きかけ)

公地公民の基礎をなす戸籍の作成は、地域社会における首長の権限を抑制し、その支配や、共同体の自律的活動に介入することでもあり、当初は強固な抵抗があったものと考えられます。授業でお話しした義江彰夫氏によるフレーザー『旧約聖書のフォークロア』の…

当時の日本は唐に対して非冊封の関係を求めながら、なぜ遣唐使などを派遣していたのでしょうか?

日本の遣唐使は、必ずしも冊封を求める朝貢の使者ではなく、その優れた文物を摂取すること、留学生・留学僧などを派遣すること、交易をなどを目的としていました。中華王朝にとって、日本のような辺境の国は、〈絶域〉と認識されています。近年まで、〈絶域…

立評についてですが、自分の私有地的なものを王権へ献上することに、何も抵抗はなかったのでしょうか。国の指示に従わない人はいなかったのですか?

7世紀の列島社会において、東アジアの国際的な変動は、中央に限らず各地方へも、少なからぬ影響をもたらしていたと考えられます。7世紀初頭までの地域社会は、同地の有力豪族が王権から国造に任命され委任統治を行う、あるいは県や屯倉などの王権の直轄地…

「俳優」は面白いですね。中世以降の芸能者には被差別民が重なりますが、この時期の「俳優」などはどのような存在だったのでしょうか。

これは重要な点だと思います。古代の芸能者は宗教者と不可分であり、共同体のシャーマンとして、神霊に芸能を捧げその言葉を託宣する、あるいは共同体の歴史、父祖の伝承を演じ語るものであったと考えられます。ヤマト王権に奉仕する者は、特殊技能を持つ語…

「称制」や「重祚」といった制度が始まった経緯はどのようなことでしょうか。また、後世にも同じような事例はありますか?

日本では、「称制」は中大兄皇子(天智天皇)と鸕野讃良皇女(持統天皇)、「重祚」は皇極・斉明天皇、孝謙・称徳天皇しか例がありません。前者は、もともと中国において、皇太后が若年の皇帝を補佐し朝政を行うことをいい、後者は「祚」すなわち天子の位を…

新羅が唐に対する姿勢を変え、融和から対立、攻勢に転じたのはなぜでしょうか。

非常に複雑な問題なのですが、背景には、唐の帝国的版図が大きく動揺し始めたことに原因があります。一時期唐に臣従していたチベットの吐蕃が、唐の注意が東方に向き始めた660年前後より拡大を開始し、白村江の戦いのあった663年、吐谷渾にあった傀儡政権を…

蘇我馬子はなぜ、小姉君の子として蘇我の血を引く崇峻を謀殺したのでしょうか。後継者争いで混乱していた時期に、どうしてまた余計に混乱させるようなことをしたのでしょう。

まず、この時期の王権は蘇我氏と一体化しており、蘇我馬子が朝廷を統括していた点を重視する必要があります。のちに、蘇我入鹿も蘇我氏の血を引く山背大兄を襲撃していますが、入鹿はむしろ、山背大兄が蘇我氏内部の人間であったからこそ、本宗家として混乱…

『書紀』における乙巳の変の記述は、細かく、また物語り的で、どの程度潤色されているのか疑わしく思いました。天皇の発言など、記述者の想像ではないかと思えてしまいます。

後ほど、トピックとして「聖徳太子」を取り上げ、そこで詳しく説明したいと思っているのですが、『日本書紀』の研究は、近年大きく進んでいます。例えば、現在の水準の基盤になっている森博達氏の研究によると、同書全30巻は、中国人が執筆したと考えられる…

飛鳥時代は、大化改新から律令制まで、さまざまな改革がなされたと思いますが、それは庶民たちにも知られていたのでしょうか。テレビや新聞がないなか、どのように情報は伝えられていたのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、政治が次第に庶民に対し、直接的影響を及ぼし始めたのが飛鳥時代に当たる時期です。いわゆる公地公民が、孝徳朝の時点でどの程度実施されたのかは疑問がありますが、例えば孝徳立評に関連する部分で、8世紀初めの『常陸国風土記…

飛鳥は地図でみたとおり「どんづまり」で、戦いに向いていなさそうです。ここに連続して宮が作られたのは、比較的平和な時代であったということでしょうか?

授業でもお話ししたように、ヤマト王権の中心はかつては纒向周辺、すなわち飛鳥より北側の、より開けた盆地のうちにありました。一時期は、大王を輩出するグループが、朝鮮南部と結びついた河内方面へ移動しますが、6世紀以降は再び大和へ戻り、飛鳥へ南下…

足利尊氏らが自らを関羽に準えたとのこと、なぜ尉遅恭や岳飛ではなく、関羽なのでしょう。尊氏の立場からすると、漢王朝への忠臣である関羽より、尉遅恭などのほうが適切ではないかと思ってしまいます。

ぼくの講義ではないので正確なところは分かりませんが(笑)、やはり知名度と信仰の程度の問題がひとつ。関羽が同時代にそれなりに著名な武将であったことは間違いありませんが、魏晋南北朝の時代を通じては、それほど屹立した信仰は成り立っていなかったと…

王権が近畿でなければならないのは分かったが、なぜ奈良盆地だったのだろうか。大阪平野のほうが、四方に開かれていたのではないか?

弥生〜古墳移行期の大阪平野は、未だ大半が淡水湖の河内湖(草香江)か、もしくは大和川水系、淀川水系から流れ込む水により低湿地化していました。河内の古墳グループは、いずれもこのような低地が丘陵にかかる高燥な地帯に存在しており、渡来系の人びとの…

ヤマト王権の大王として評価された「実力」とは、武力、経済力、政治力、宗教力などのうち、どのような力だったのでしょうか?

時代のそれぞれの局面において、〈実力〉の意味するところは異なっていたのではないかと思われます。しかし、経済力、軍事力、あるいは祭祀などを通じた呪術的能力、それらは最終的には政治力に収斂されてゆくのでしょう。百舌鳥古墳群、古市古墳群を形成し…

古墳と墳丘墓の境目は何ですか?

埋葬施設を、土砂・石材・木材などによって丘陵を築き、表現しているのが墳丘墓です。その意味では、古墳も墳丘墓の一種といえます。しかし、また別の区分の仕方では、弥生時代以前の墳丘墓をそのままに呼び、当時の知識・技術、政治性・社会性・経済性・宗…

日本以外に、府官制で用いるような幕府を開いた国はあったのでしょうか?

朝鮮三国は、倭と競合して劉宋に将軍職を求めており、やはり『宋書』列伝/夷蛮伝に、高句麗王は征東大将軍、百済王は鎮東将軍に叙任されていることが確認できます。つまり、高句麗も百済も、そしてヤマト王権も、劉宋のレベルでみると〈幕府〉なのです。な…

神=人というのは、神が降ったのでしょうか、人が上がったのでしょうか?

面白い質問ですね。なかなか回答が難しいのですが、必ずしも上下の地位関係ではなく、質的に近づいたということができるでしょう。縄文時代の終わり頃には、授業でも触れたように、祖先らしきものへの信仰が始まっていました。後ほどまた扱いますが、縄文時…

ヤマト王権が同盟関係を結んでいた東限といえるのは、どのあたりまでなのでしょうか?

前方後円墳の北端は、岩手県胆沢郡胆沢町の角塚古墳(6c初、古墳後期)で、全長約45メートルの規模です。同時期の畿内大王墓、継体天皇陵とも推測される今城塚古墳が全長約190メートルなので、1/4ほどの較差となります。東北の場合、角塚古墳以南には、約70…

ヤマトが東アジア的な政治を行っていたという考えは、後世にその種の史料を解読できるようになってから生まれたものと思うが、古墳時代の当時、外国の文献を解読できる人や、外国との交流を図れる人は存在したのか?

「東アジア的な政治」というのは、劉宋に対して朝貢していたこと、朝鮮三国と競合していたことでしょうか。もしそうならば、授業でもお話ししましたように、これは後世の評価ではなく、同時代的な事実です。倭王武の上表文は、『宋書』列伝/夷蛮伝の掲載で…

河内地域の古墳群が世界文化遺産に登録されたことについて、どうお考えですか?

河内の古墳群に限らず、まず陵墓に選定されている古墳については、その学術調査の可能性について、長く宮内庁と歴史・考古関係の学会とが折衝を続けてきた歴史があります。その結果として、これまで立ち入りさえ許されなかった場所への踏査が許可されたり、…

武が劉宋の順帝へ奉献した上表文において求めた役職のうち、なぜ百済の諸軍事が除かれたのでしょうか?

『宋書』夷蛮伝によれば、百済はすでに、東晋末期の義煕 12年(416)、「使時節、都督、百済諸軍事、鎮東将軍、百済王」の称号を得ています。これは基本的に劉宋期にも踏襲され、以降毎年献物をもって朝貢したとのこと。百済は、倭以前に宋と冊封関係にあっ…

大王は、東国から九州までの領域を支配する際、中央から地方への意思伝達をどのように行ったのでしょうか?

授業で紹介した稲荷山古墳出土鉄剣銘にしろ、江田船山古墳出土大刀銘にしろ、地方の有力者が、王権の職務を世襲的に担っていたことを伝えています。また、杖刀人にしろ典曹にしろ、ワカタケル大王の「斯鬼宮」へ出仕する役職でした。すなわち、東国からも九…

古墳時代は寒冷期であったことが王権の出現に結びついたとありましたが、では仮に温暖期であったとしたらどうでしょうか?

この「if」はなかなか難しいですね。かつては弥生から古墳にかけての変化は、まさに温暖期の出来事として説明されていました。単純に、稲米の収穫の増大→余剰生産物の増加→貧富の拡大→富者の権力拡大→突出した首長の誕生→王の出現、と理解していたわけです。…