アジア・日本史系概説I(18春)

畿内の豪族たちの歴史をもって「日本史」とすることに非常な違和感があります。『書紀』を史料として用いる限り、万世一系の天皇制イデオローグの呪縛からは逃れられないのではないでしょうか。

仰ること、よく分かります。飛鳥・奈良・平安になると、短い時間のなかで語らなければならないことも多く、どうしても内容が中央政治偏重になってしまい、その意味でも問題があるな、と自覚しています。なお『日本書紀』の問題ですが、書かれていることはそ…

この当時、諱は存在しなかったのでしょうか?

大王=天皇、王族を除けば、中国ほど明確ではありませんが、それらしきものはあります。例えば、蘇我馬子を「島大臣」と呼ぶのは本拠のある地名で呼んでおり、蘇我入鹿を「鞍作」と呼ぶのは養育氏族の名称で呼んでいます。ともに、その人物を直接指す本名で…

充分な勢力を持っていたはずの蘇我氏は、なぜ内紛によって減退してしまったのでしょうか?

蘇我氏内の諸勢力が強力になっていた分、それを充分に統括することができれば並ぶもののない権力を維持できますが、分裂してしまうと幾つかの氏族が対立するのと同様の情況になってしまうわけです。事実、本宗家が滅亡したあとも財政を握っていた倉山田家が…

蘇我「蝦夷」という名前は、どのような意味を持っているのだろう。滅ぼされたあとの、後付けではないか?

エミシとは、もともと勇猛で強力なひとを意味する言葉です。東国は肥沃でそこに活動するひとは強力であるとも意味から、この呼称が発生しています。ゆえに、奈良時代の有力貴族でもエミシを名乗るひとは散見されます。問題はその漢字表記で、中華思想のもと…

中央集権へ最初に踏み出したのは蘇我氏で、そのために山背大兄王を襲撃したと聞いたことがあります。どうなのでしょうか? / 朝廷において皇族を殺してしまうのは、明らかに反発を招くと思うのですが、なぜ入鹿はそうした手段を選んだのでしょうか。

上の回答でも書きましたが、私も、中央集権化の改革は当初蘇我氏が担っていたと考えます。乙巳の変は、その主導権を大王家へ奪取するクーデターであった、ということです。入鹿による山背大兄暗殺は、蘇我氏内部の問題に端を発していますが、実は古人大兄や…

憲法十七条の「憲法」とは、どのような意味でしょうか。

憲法十七条については授業では詳しく触れませんでしたが、隋の成立に伴う国際的緊張のなかにあった推古朝の朝廷において、中央集権化へ踏み切ろうとする蘇我馬子の改革のなかで、それに近いものは実際に作られた可能性があります。内容は儒教や仏教の道徳を…

伝記と史料とは、かなり食い違う部分があるのでしょうか。 / 文献史料はどこまで信用しうるのだろうか。

もちろん、伝記も重要な史料です。問題は、個々の文書の性格ということで、「伝記」といったカテゴリー一般に不正確な属性があるわけではありません。ただし、その人物に対して豊富な記述をしてゆくなかでソースの不透明なエピソードが大量に用いられていた…

聖徳太子のイメージを構築したひとは、どのような意図をもって、誇張したものを波及させたのでしょうか? / 太子伝はなぜ作られたのでしょうか。豪族ではなく王族の偉人を作る必要があったのなら、中大兄や中臣鎌足に対する伝記や信仰が生まれてもよさそうだと思うのですが。 / 平安時代に聖徳太子の伝記を書いたひとは、なぜ史料批判もせずにまったく違うことを書いたのでしょうか。

聖徳太子信仰は、『日本書紀』編纂のあとの奈良時代、初めての女性皇太子であった阿倍内親王(孝謙・称徳)の即位に利用されて活性化しました。仏教に帰依した皇太子像を援用することで、性別を超越したありようを目指そうとするんですね。その後はとにかく…

「天子南面す」との思想と、日本の宮城が都の北端に位置することは関係があるのでしょうか。

関係あります。これから藤原京、平城京のお話をしてゆきますが、せっかく前者を造営しておきながら10年ほどで後者を建設するのは、まさに「君子南面」が克服すべき課題となったからでした。次回をご期待下さい!

隋へ対等外交を求めたとの記述は、『隋書』にも『日本書紀』にも出ていないとのことでしたが、のちの解釈でそう作り上げてしまったのはなぜなのでしょうか?

授業でもお話ししましたが、聖徳太子による対等外交云々が最初に教科書に登場するのは、大正9年(1920)の『尋常小学国史』でした。これは、大正10年の裕仁皇太子摂政就任と聖徳太子1300年遠忌が重なったことから、「摂政」聖徳太子の事跡を神聖化し喧伝す…

600年前後、隋は他の国と争おうとしていて、日本はそれを知ったうえで「無礼な手紙を書いても怒らないだろう」と踏んで、「天子」という言葉を使ったと聞いています。もしそうなら、国際法上のブランクがあったのではなく、国際情勢に通じていたということになりませんか?

「無礼な手紙を書いても怒らないだろう」というのでは、何のために隋に使節を送ったのか分かりません。しばらく中国王朝と接触のなかった倭としては、隋の先進的な知識や技術、文物を受容し、半島諸国に比肩しうる古代国家を構築したかったはずです。隋を挑…

聖徳太子の同時代史料がみつからないというのは、何か原因があるのでしょうか。

7世紀前半以前の人物について、同時代史料がみつかるほうが希です。そうしたなかで厩戸王は、7世紀後半〜8世紀前半にかけて、多くの金石文や伝世史料を残しています。同時代ではない可能性が高いとはいえ、非常に特別なことです。この時期、厩戸王を神聖…

なぜ、厩戸王でなければならなかったのでしょうか。

厩戸王は、蘇我馬子が大きな力を帯びていた推古朝の朝廷においては、用明大王を父に持ち、蘇我氏系の王族穴穂部王女(欽明大王の娘)を母に持ち、大兄の称号を冠されていた可能性もあって、王位継承の序列もそれなりに高い人物でした。業績として確実なのは…

「河伯」が黄河の神であるのに、なぜ日本の何の関係もない川に住むと考えられたり、女ではなく男が人柱になっているのだろうか。 / 生け贄にされた強頸と衫子の性別はどちらでしょうか? 生け贄は、女性や子どものほうが多い気がします。 

『日本書紀』には、「河伯」という語は2回しか出てきません。ひとつが授業で紹介した仁徳天皇の時代とされる茨田堤の造営記事、もうひとつは皇極朝、祈雨に際して河伯を祀るとの記載が出てきます。いずれも中国的色彩の強い内容で、すなわち志怪小説など、…

神殺しについてですが、このような思想が展開されたあとも、民衆のなかに自然崇拝は残ったのでしょうか。 / 神殺しのような思想が定着するには、ずいぶん時間がかかったのではないかと思います。天皇は、そのような神よりも偉いとされたのでしょうか?

もちろん、現在に至るまでアニミズム要素は残存しています。ただし、このような神殺し的なものも存在しますので、以降の時代、権力その他の誘導の仕方によって、両方の要素が繰り返し出現することになります。また授業でお話ししますが、天皇の存在などは、…

卜部は卜占を担当するとのことでしたが、卜部兼好の祖先はその卜部ですか?

そのとおりです。卜占の官が神話=歴史を叙述・管理することは日本でも受け継がれ、卜部=吉田家は日本紀注釈の家となり、最終的にはそこから発展して、吉田兼倶に至って唯一神道=吉田神道を生み出してゆくことになるのです。

東漢氏と西文氏と、2つのアヤウジの系統があると聞いたのですが、どう違うのでしょうか。

アヤは「漢」と表記したり、「書」「文」と表記したりします。恐らくは5〜6世紀初めに朝鮮半島から渡来した人びとのうち、もともとは漢人で、南北朝の動乱から半島へ亡命してきたと考えられた人びとを、「漢」氏で統括し配置したものでしょう。南北朝の中…

筑紫国造磐井は、新羅からの援助をどのような形で受けたのでしょうか? / 磐井はなぜ新羅の味方になってしまったのでしょうか。

前提として、国と国との関係を、現在のような国民国家、近代国家どうしの関係のように考えないほうがよい、ということです。九州北部地域の豪族たちは、これまで弥生、古墳時代とお話ししてきたように、ずっと朝鮮半島と緊密な関係を築いてきました。心情的…

この時期ですら、ひとつの豪族に権力が集中することを抑制する仕組みができていたのに、なぜ平安時代には藤原氏の独占へと進んでしまうのだろうか。

結局、天皇制が維持された列島社会の場合、政権に関与する豪族・氏族のなかから一部の勢力が突出してゆくとき、契機になるのは大王家=天皇家との姻戚関係です。葛城氏しかり、蘇我氏しかり、そして藤原氏しかり。藤原氏の突出は、天武・持統の子である草壁…

古代日本にはヒメヒコ制と呼ばれる二重天皇制があったそうですが、大兄制と同じものですか?

ヒメヒコ制については、卑弥呼に関する質問でもすでに回答しましたが、男性=ヒコが世俗的政治を担当し、女性=ヒメが宗教的祭祀を担当し、両者で祭政一致の王権を担う仕組みです。大兄制は、大王位継承の世代内における順序の基準をなすものですので、まっ…

中学・高校時代に、5世紀の飯豊青皇女を扱いましたが、先生の授業でとりあげなかったのはなぜですか?

飯豊青皇女だけではなく、雄略を除いて、継体より前の大王(天皇)については扱っていません。少なくとも現時点で実在が確認されておらず、『日本書紀』や『古事記』の語る虚構に過ぎないからです。むしろ、高校や中学で飯豊青皇女を扱ったということが驚き…

「万世一系」とは、どこまでを指すのでしょうか。王朝ではなく王統の交替であれば、ある程度統一感はあるのではないでしょうか。

神武以来、現在に至るまでです。継体より前の系図では、雄略以外に実在を確定できる人物がおらず、その系図上の登場人物も、捏造し水増ししたことが明らかな大王たちも多数存在します。河内グループと大和グループとでは、血縁関係があったかどうかも不明な…

中国や朝鮮は、何度も王朝が交替しているにもかかわらず、過去の史料が残っているのはなぜなのでしょう。偶然残ったのでしょうか?

中国王朝においては、先行する王朝の歴史を客観的に叙述し、後世に伝えてゆくことがひとつの使命とされていました。編纂に当たる史官の立場からすると、その仕事が後世の学者たちに批判的に読み込まれることになりますので、天を基準にバランスを保ち、現王…

日本で文字が使用されるのはいつからなのでしょうか?

弥生時代の農具に、文字らしき「卜」という記号が書かれているものが出土しています。しかし、幾つかを連結して文章的なものが表されない限り、それを文字とは呼びにくい。そうなると明確なのは、ワカタケル=雄略に関係する金石文が初出、ということになる…

飛鳥の王朝にみられる、合理的な政治のあり方と、非合理的な神話や祭祀のあり方が共存しているところに、日本の奇妙な魔術性の根源があるように思われた。人びとが信じる神々が、彼らが無自覚な外部において政治へと収斂されてゆく統治の機構こそ、現代に至るその魔術性の基礎になっているのではないか。

深いですねえ。まさに、その仕組みが現在も機能している点が怖ろしいところです。明治の廃仏毀釈は、近世以前の神仏習合の伝統を破壊し、渾然一体となった寺社の信仰対象を分離して、神社の祭神を『古事記』『書紀』に出てくるような古典的なものへ改めてゆ…

蘇我大臣や物部大連の「臣」「連」には、どういう意味、違いがあるのでしょうか?

事典を調べれば分かることですが、「臣」は「大オホ」+「身ミ」で勢力のある一族の意味、「連」は「群ムレ」+「主ヌシ」で集団の首長の意味と考えられています。前者は多く地名を氏の名に持ち、その地域の豪族で大王家に臣属したものとみられます。一方後…

現在、蘇我や大伴、阿倍、中臣といった苗字の人が存在しますが、安直に飛鳥時代の豪族の子孫だと考えてよいのでしょうか?

列島に生きる人びとの苗字は、その後変転を繰り返します。古代においても、Aという氏姓を名乗っていた集団が突如Bという氏姓を名乗り始める混乱があり、そのつど朝廷がこれを正す系譜や帳簿などを作成しています。実は、序文に従うなら『古事記』もその一…

合議制に参加した有力豪族たちをみると、大王がいなくても支配が可能であったように思うのだが、どうして彼らは、大王や大兄を必要としたのだろうか。

授業でもお話ししたとおり、大王が利害の調整を体現しており、豪族たちは、その機能・権限を分有し王権を運営しているに過ぎません。もちろん、例えば蘇我氏が大王位に就いていたとすれば、大和グループの王/臣下の関係も流動的で、飛鳥時代においても大王…

大兄制に関して、王位継承をめぐる争いのなかで、厳密に大兄が付いているかいないか、ということで何らかの意味はあったのでしょうか?

結局、『日本書紀』に記載されている大兄が、当時存在したすべての大兄であったのかどうかが分からないので、この質問に回答することは困難です。例えばまさに聖徳太子、厩戸王は、用明大王と穴穂部間人王女の間に生まれた王子(来目皇子・殖栗皇子・茨田皇…

「血縁原理の導入」とあるが、もともとは中国や朝鮮のものだったということでしょうか?

実力主義で推移していたと考えられるヤマト王権の継承原理に、中国王朝で使用されていた父系直系継承をはじめ、王朝を血縁によって運営してゆく仕組みが導入されてくるということです。弥生時代の段階からお話ししているように、邪馬台国からヤマト王権にお…