アジア・日本史系概説I(19春)
何を求めてどのように生きるかは、時代によっても社会によっても、そしてどの階層に属するのか、どんな職業を持っているのか、究極的には個々においても異なりますね。古代の貴族層においては、氏族、もしくは家を存続させること、儒教的な考え方に沿ってい…
石窟寺院、ではありませんね。龍門石窟をモデルとしたのは、あくまで盧舎那大仏の造立についてです。紫香楽で始まった盧舎那仏の造立は、方法こそ石刻/鋳造と異なりますが、都との位置関係、内包する思想など多くの点で、龍門の奉先寺を先蹤としているよう…
平安時代に書かれた日記には、男性日記と女性日記があります。後者の方がいわゆる女流文学で、『蜻蛉日記』『紫式部日記』『更級日記』など。こちらは日記といっても、日次記のように毎日書き継いでいったというよりは、メモ的なものをもとにある時期に再構…
確かに、頼通以降摂関家の全盛時代は終わりを迎えますが、藤原氏の時代が終わったわけではありません。院政期も摂政・関白は藤原北家嫡流が継承してゆきますし、鎌倉以降はそれが五摂家に分派、近衛・九條・一條・二條・鷹司の各家から必ず太政大臣、摂政・…
『日本書紀』欽明天皇13年(552)10月条から始まる仏教公伝、崇仏論争の記事には、神祇信仰を奉じる物部氏や中臣氏が、「我が国家の天下に王たるは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝することを事と為す。方に今、改めて蕃神を拝さば、恐るら…
倹約令が効果を持つのは、商業と流通が発達し、消費社会が一定の広がりを持ってからだと思います。奈良時代にも、商業・流通に根差す消費行動はありましたが、それは都市を中心とする、限定された領域と階層に止まっていました。そのため、「過差」すなわち…
以前にも類似の回答をしましたが、自身の直轄する王国の外部に、複数の小国、異民族などを従える規模の国家を〈帝国〉と呼称します。中華王朝は、春秋・戦国時代に割拠した群国が秦によって滅ぼされ、初めて統一的な帝国が誕生します。しかし、その内容は続…
「日本」という国名が、百済王家の包摂と関係するわけではありません。百済滅亡後の処理については、早く唐が前百済太子扶余隆を熊津都督に任命、遺領と遺民の統括を命令しています。しかし、隆は新羅の襲撃を怖れて赴任しなかったため、唐の将軍劉仁軌が検…
別の質問への回答でも少し触れましたが、確かにこの時期の日本は、唐をも諸蕃(劣位、あるいは対等な関係にある外国)の位置に置き、小帝国としての国際的立場を目指していたようです。それは、都城や律令を具備した文明国としての矜恃であったのでしょう。…
宮城の部分には、天皇の住居である内裏のほかに、政務の行われる朝堂院や、百官の庁舎が立ち並んでいました。宮城外の京の部分には、主要街路である朱雀大路や二条大路を忠臣に、基本的には宮城に近いほど高位の貴族の大邸宅が建ち、その他寺院や市場などが…
天武朝に使用され始めた当時は、鋳造量もさほど多くはなく、経済的な役割より呪術的な機能、すなわち〈厭勝銭〉としての性格が強かったと考えられています。モノやコトを仲立ちする貨幣なるものの機能は、アジアにおいてそれが発生した古代中国の殷帝国の段…
たとえ古代とはいえ、外交は儀礼的なものではなく、実質的な面も大きなものです。大宝2年の遣唐使は、統一新羅がその存在感を増す東アジア情勢のなかで、白村江の戦い以降逼塞せざるをえなかった倭=日本が、失地を回復するための大きな役割を持っていまし…
例えば中華王朝の異民族認識は、中原地域を世界の中心とし、文化はそこから周縁へ行き渡るものだという、エスノセントリズムによって成り立っています。それぞれの地域集団のエスニシティがしっかりとあり、その差異・同一性をもって「異民族」の同定が行わ…
南島の人びとの朝貢については、『続日本紀』文武3年(699)7月辛未条に、「多褹、夜久、菴美、度感等の人、朝宰に従ひて来たり、方物を貢ず。位を授け、物を賜ふこと各差有り。其れ度感嶋の中国に通ずること、是に於て始まれり」と出てきます。最後の「中…
藤原京を例に挙げて考えてみます。授業でもお話ししたように、この都は、倭=日本が採用し建設した最初の中国的都城です。これをどこに造営するかという占地の問題も、恐らく中国の方法を受容し整備したものと考えられますが、そうしたことを主要な職務とし…
都城に本貫(本籍地)を持つ戸口を京戸といいます。京戸の由来については、実は明確に分かっておらず、もともとその地域に住んでいた人びとが編成されたとか、あるいは都城造営に奉仕した人々が定着したといった見解があります。ただし、ひとつ注意しておか…
学術的に考えた場合、天皇号が出現するのは天武・持統朝と考えられていますので、一般的にはこの頃、あるいは遡っても推古朝あたりを始点にするのが普通です。帝国日本の時代は、『日本書紀』を聖典としていましたので、その記述に従って神武即位を起源に定…
和同開珎は、主に平城京周辺の都市経済圏で流通していた、というのが実態です。そもそもこの貨幣は、律令国家が、その威信を賭けた藤原京造営から間もない時期、再び取り組まねばならなくなった平城京造営の財源を捻出するため、素材の質量以上に価値を付与…
実はこのあたりのことも、分かっていないことが多いのです。藤原京の京戸は、やはり周辺に住む人びとが集められたと思いますが、人口のほとんどは国家を運営する貴族や官人層であったはずです。宮殿も移築され、大官大寺、薬師寺、法興寺(元興寺)、厩坂寺…
別の質問にも回答しましたが、まず、当時国家に承認された正式な僧尼は、いわば官僚に等しいものでした。彼らは王権・国家のために仏教を学び、実践する義務・責任があったのです。また、唐や新羅に渡って最新の仏教的知識に触れ、帰国した留学僧らが、例え…
業病の概念としては、悪業の結果、すなわち悪報として不治の病を背負う、ということです。これが中国、東アジアにおいて喧伝されたのは、中国における三武一宗の法難、より正確にいえば、うち5世紀前半の北魏太武帝による廃仏、6世紀後半の北周武帝による…
道徳、倫理はよいものだという認識があるかもしれません。社会学的に考えれば、それは、社会を構成している人びとが相互にトラブルを起こさないよう、予め調整するための仕組みです。国家や王権、権力との関係でみるならば、統治しやすい安定したピラミッド…
なるほど、そういう認識なんですね、ちょっと驚きました。自分が僧侶だからいうわけではありませんが、日本は国際的に「仏教国」と位置づけられるほど、仏教信仰の強い国です。2018年の文化庁の調査報告によると、日本の総人口約1.268億人に対し、総信者数は…
授業の最後に出てきた藤原広嗣の乱の起こった要因として、藤原氏のなかでの派閥争いまたは当時の政治体制に不満、もしくは一部の人に有利に展開されていたのか? 九州で起きたとすると、対外的な要因があったのか?
藤原広嗣については、まず、奈良時代の正史『続日本紀』の天平12年8月癸未条に、「大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣上表し、時政の得失を指し、天地の災異を陳べ、因りて僧正玄昉法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備を除くを以て言と為す」と出てきます。すな…
国家の正式な文書はすべて漢文であり、詩文なども漢文で作成しますので、これを読んだり書いたりするのは必須の教養です。なかには漢籍に明るい人物もいて、春秋戦国から魏晋南北朝に至る優れた詩賦を集めた『文選』30巻を、暗誦できた者もいました。しかし…
大変によい質問です。「日本らしさ」という概念が成立するためには、周囲と「日本」とを政治的・社会的・文化的に区別する境界線が必要です。そしてその境界線は、時代によっても、地域によっても、場合によってはそれを引く主体ごとに、大きく変動するもの…
これは、中国皇帝に対する一般的な呼び方が、諡号、廟号、そして元号に基づく呼称などを、混乱して用いているための誤解だと思います。中国では、周王朝の時期に、皇帝の業績に応じて臣下が諡号を奉呈する仕組みができあがりました。これは、『逸周書』諡法…
井沢元彦説ですね。まったく根拠のない、いわゆるトンデモ「学」説です(正確には学説ではなく、評論に過ぎません)。信じてはいけません。授業でもお話ししましたように、奈良王朝は天智天皇を皇位継承の正当性の根拠に据え、さまざまに顕彰していました。…