アジア・日本史系概説I(19春)

墾田永年私財法は国家にとってプラスであったかマイナスであったか、教科書等の記述でコロコロ変わっています。先生はどうお考えですか?

政策を歴史的に評価する場合、現時点で当面する課題に効果的であったかということと、将来にわたってどのような影響を及ぼしていったのか、ということがポイントになるでしょう。前者においては、三世一身法から墾田永年私財法にかけての政策的流れは、それ…

称徳天皇は道鏡を皇位に即かせようとしたとのことですが、本来僧は世俗から切り離された存在であり、彼らが王位に即くのは道理に反しているのではないかと思います。

そうですね。このことを理解するためには、奈良時代、僧尼が置かれていた環境について知っておく必要があります。現在の感覚でいうなら、個人がいかなる信仰を持とうが、仏教に帰依し出家をしようが、国家がそれに介入をするのは不当でしょう。しかし、まさ…

藤原京についてですが、石材も離れた場所から運搬されてきたのでしょうか? 低湿地帯に石切場がある印象がないのですが…。

最初の中国的都城である藤原宮の大極殿は、土で固めた基壇表面を加工石材で装飾した、切石積基壇をもちいた最初の宮殿でした。斉明朝以来の飛鳥京の荘厳、あるいは重要な墳墓の造営においては、同地ともほど近い河内との境界に位置する、二上山の凝灰岩が頻…

多くの天皇が出てきますが、当時、天皇の優秀さというものは問われたのでしょうか。

大きな時代の流れ、もしくは一時代の政治的局面によりますね。飛鳥時代は大王から天皇への移行期ですので、実力重視の段階から王統重視の方向へ舵を切り、例えば蘇我氏が朝廷に大きな権力を得ていた段階では、蘇我氏との血縁関係や、あるいは王権を支える畿…

巨大な都城を造営し、視覚的イメージによって天皇の力を誇示することは理解できるのですが、中国の権威を用いることに意味はあったのでしょうか。当時の一般の人びとに、中国王朝の知識はあったのでしょうか。 / そもそも古代に人びとにとって、天皇とはどのような存在だったのでしょう。

やはり、都城の造営には、律令国家を運営することの実質的機能とともに、ご指摘のとおり権力の誇示の問題があります。その「誇示」には大きく分けて2つの面があり、ひとつは新羅や唐に対し、倭=日本の文明性と国力の大きさを知らしめること。中国的な都城…

藤原京の造営時に、墳墓を破壊していたというのは意外だった。いくら都を造るためとはいえ、抵抗はなかったのだろうか。当時の人々は、どのような理屈でそれを乗り越えたのだろうか。

『日本書紀』持統7年(693)2月己巳条に、「造京司衣縫王等に詔して、掘るところの尸を収めしむ」との記載があります。造営工事に際して暴かれてしまった遺体を収容し、いずれかへ埋葬したとの内容でしょう。藤原京域には、例えば畝傍山北東の京域に、古墳…

年表で「光仁朝」といった表記がありますが、〜朝というのは、単に天皇が治めた時代といった意味でしょうか。王朝交替を前提とした表記に思えてしまうのですが…。

「朝」には朝廷、治世・御代などの意味があります。世界史的な王朝交替を前提にすると誤解が生じますが、東洋史や日本史ではある皇帝、天皇の治世を「○○朝」と表現します。しかし、これも確かにさまざま問題があるいい方であることは確かです。「○○朝」と時…

藤原四子亡きあと、藤原氏からの権力者をしばらく聞かないが、恵美押勝が権力を握るまでの藤原氏はどうだったのか。皇族に親族を多く持っていたため、その血縁を活かしたのだろうか。

古代から書き継がれてきた公卿の職員録である『公卿補任』によると、まず、藤原四子の死亡直後の天平10年(738)の廟堂の構成は、下記のとおりとなっています。橘諸兄は、授業でもお話ししたように不比等の女婿であり、藤原光明子の異母兄に当たる人物なので…

天皇による開発事業が天皇の神性を生み出す結果となったと理解したが、世界史的にみて開拓や灌漑は支配者に神的要素を与えるものなのか。現実に開発を行う人民の存在は、そうした言説の妨げにならないのか?

まず、中国において最初の人間の王朝=夏を開いたとされる禹王は、中華全土の治水に成功したため、帝舜から禅譲を受けて即位をしたとされています。古墳時代のところでも言及しましたが、水をコントロールすることが王権を生み出す、あるいは強化することは…

天皇=神というのは、直系のみに当てはまるのですか?

あくまで天皇の位に関するものです。柿本人麻呂が即神表現を生み出している段階では、高市皇子や忍壁皇子など、天武の皇子たちも「神」として扱われていますが、それはやはりプリミティヴな段階にあったからでしょう。伝統的には、古墳時代の首長が、古墳祭…

飛鳥は地図でみたとおり「どんづまり」で、戦いに向いていなさそうです。ここに連続して宮が作られたのは、比較的平和な時代であったということでしょうか?

授業でもお話ししたように、ヤマト王権の中心はかつては纒向周辺、すなわち飛鳥より北側の、より開けた盆地のうちにありました。一時期は、大王を輩出するグループが、朝鮮南部と結びついた河内方面へ移動しますが、6世紀以降は再び大和へ戻り、飛鳥へ南下…

飛鳥時代は、大化改新から律令制まで、さまざまな改革がなされたと思いますが、それは庶民たちにも知られていたのでしょうか。テレビや新聞がないなか、どのように情報は伝えられていたのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、政治が次第に庶民に対し、直接的影響を及ぼし始めたのが飛鳥時代に当たる時期です。いわゆる公地公民が、孝徳朝の時点でどの程度実施されたのかは疑問がありますが、例えば孝徳立評に関連する部分で、8世紀初めの『常陸国風土記…

『書紀』における乙巳の変の記述は、細かく、また物語り的で、どの程度潤色されているのか疑わしく思いました。天皇の発言など、記述者の想像ではないかと思えてしまいます。

後ほど、トピックとして「聖徳太子」を取り上げ、そこで詳しく説明したいと思っているのですが、『日本書紀』の研究は、近年大きく進んでいます。例えば、現在の水準の基盤になっている森博達氏の研究によると、同書全30巻は、中国人が執筆したと考えられる…

蘇我馬子はなぜ、小姉君の子として蘇我の血を引く崇峻を謀殺したのでしょうか。後継者争いで混乱していた時期に、どうしてまた余計に混乱させるようなことをしたのでしょう。

まず、この時期の王権は蘇我氏と一体化しており、蘇我馬子が朝廷を統括していた点を重視する必要があります。のちに、蘇我入鹿も蘇我氏の血を引く山背大兄を襲撃していますが、入鹿はむしろ、山背大兄が蘇我氏内部の人間であったからこそ、本宗家として混乱…

新羅が唐に対する姿勢を変え、融和から対立、攻勢に転じたのはなぜでしょうか。

非常に複雑な問題なのですが、背景には、唐の帝国的版図が大きく動揺し始めたことに原因があります。一時期唐に臣従していたチベットの吐蕃が、唐の注意が東方に向き始めた660年前後より拡大を開始し、白村江の戦いのあった663年、吐谷渾にあった傀儡政権を…

「称制」や「重祚」といった制度が始まった経緯はどのようなことでしょうか。また、後世にも同じような事例はありますか?

日本では、「称制」は中大兄皇子(天智天皇)と鸕野讃良皇女(持統天皇)、「重祚」は皇極・斉明天皇、孝謙・称徳天皇しか例がありません。前者は、もともと中国において、皇太后が若年の皇帝を補佐し朝政を行うことをいい、後者は「祚」すなわち天子の位を…

「俳優」は面白いですね。中世以降の芸能者には被差別民が重なりますが、この時期の「俳優」などはどのような存在だったのでしょうか。

これは重要な点だと思います。古代の芸能者は宗教者と不可分であり、共同体のシャーマンとして、神霊に芸能を捧げその言葉を託宣する、あるいは共同体の歴史、父祖の伝承を演じ語るものであったと考えられます。ヤマト王権に奉仕する者は、特殊技能を持つ語…

立評についてですが、自分の私有地的なものを王権へ献上することに、何も抵抗はなかったのでしょうか。国の指示に従わない人はいなかったのですか?

7世紀の列島社会において、東アジアの国際的な変動は、中央に限らず各地方へも、少なからぬ影響をもたらしていたと考えられます。7世紀初頭までの地域社会は、同地の有力豪族が王権から国造に任命され委任統治を行う、あるいは県や屯倉などの王権の直轄地…

当時の日本は唐に対して非冊封の関係を求めながら、なぜ遣唐使などを派遣していたのでしょうか?

日本の遣唐使は、必ずしも冊封を求める朝貢の使者ではなく、その優れた文物を摂取すること、留学生・留学僧などを派遣すること、交易をなどを目的としていました。中華王朝にとって、日本のような辺境の国は、〈絶域〉と認識されています。近年まで、〈絶域…

庚午年籍は、いったいどこからどこまでの地域を対象にし、正確性はどの程度あったのでしょうか? / 古代社会において造籍が反発を招くものだったなら、それが一般的になるのはいつなのでしょうか。(書きかけ)

公地公民の基礎をなす戸籍の作成は、地域社会における首長の権限を抑制し、その支配や、共同体の自律的活動に介入することでもあり、当初は強固な抵抗があったものと考えられます。授業でお話しした義江彰夫氏によるフレーザー『旧約聖書のフォークロア』の…

中国の方式に倣っているなら、皇帝の代替わりによって遷都が行われるのが普通と思いますが、日本の古代ではなぜそうなっていないのでしょうか?

中国では、王朝が代われば別ですが、同一王朝では代替わりによっても、よほどのことがない限りは都は移動しません。古代の日本では、それが、天皇(大王)の代替わりごとに行われていました。一般にはこれは、中国などと比較して異常なこと、極めて非効率的…

白村江の戦いに際し、倭は人質の豊璋を帰国させ王朝を再建されたとありましたが、こうした倭の政治的介入について、百済国内では反発はなかったのでしょうか?(書きかけ)

授業のレジュメにも書いておきましたが、660年、蘇定方率いる10万の唐軍、金庾信率いる5万の新羅軍の攻撃を受け、義慈王は降伏して唐へ連行され、百済は一旦は滅亡してしまいます。その後、百済旧地の支配は在地豪族に委任されますが、同年末には百済の遺臣…

白村江の戦いの後や壬申の乱の際に東国が重視されたように、ヤマト王権にとって東国の価値は高いものであったと考えられます。それはいつからのことでしょうか?

まず、当時の〈東国〉は不破関より東、現在の中部地方から関東に至る地域を漠然と意味していました。『日本書紀』景行天皇27年春2月壬子条には、「武内宿禰、東国より還りて奏して言さく、『東夷の中に、日高見国有り。其の国人の男女、並に椎結文身し、人…

蘇我本宗家は権力集中に破綻したが、中大兄らの改新勢力はそのことに成功したようだ。両者の違いはどこにあったのか?

身も蓋もないいい方ですが、これは偶然性に左右されるところが大きかったかもしれません。蘇我本宗家は、馬子から蝦夷への権力移譲の際に不安要素があり、内紛によって有力な家を幾つか失ったこと、入鹿の実力行使が過激でやはり自身の勢力の縮減に繋がって…

白村江の戦いなどで異国と戦ったことにより、「日本人」というアイデンティティーは確立されたのか? また、境界線が曖昧だった東北に対してはどうだったのだろうか?

われわれがいま考えるような〈日本人〉というアイデンティティーが成立するには、奈良時代の三国伝来思想、中世の神国思想、近世の国学などいろいろな画期がありますが、やはり社会一般において構築されてゆくには近代を俟たねばなりません。古代においては…

ヤマト王権の時空支配の話が出てきましたが、当時、一般庶民に時間の認識はあったのでしょうか? 元号が大王ごとに変わっていたのでしょうか?

太陽の運行と月の運行に基づく、時間認識、季節認識はあったものと思われます。『隋書』巻81 列伝/東夷/倭国条によると、開皇20年(600)、倭は隋へ使者を派遣し、煬帝に謁見しています。そのときの記述に、次のような一節があります。「 倭王、姓は阿每(…

隋も唐も高句麗を攻めていますが、そもそも中国王朝は、朝鮮半島に対してなぜそれほどまで執着したのでしょうか。

まず、中国皇帝の理想的なあり方として、中央にある文明を周縁の蛮族に浸透させ、すべてを文明世界に発展させてゆくという使命があります。これを正当性の根拠に、歴代王朝の皇帝たちは中華世界を、そして周縁への征圧戦争と服属、朝貢の獲得を推進していっ…

なぜヤマト王権は、百済復興のために大規模な軍隊を派遣したのでしょうか? 勝算があると考えていたのでしょうか?

倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。史料的に確認できるのは、広開土王碑文や倭王武上表文にみえる5世紀後半までです。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、船を用いた水軍戦について、経験が豊富…

なぜ征夷大将軍のように、東を攻める将軍は優遇されたのですか。九州を平定するなど、西を攻める将軍には、どの程度の権限があったのですか。

府官制の問題でしょうか。将軍の場合、対処すべき事案によって与えられる権限に増減がありますが、単に制圧先が西か東かだけで待遇が変わるということはありません。古代から中世にかけての日本の場合、すでに九州については大宰府が置かれ制圧がある程度完…

倭国は、高句麗の好太王に敗れた歴史があるように、軍事については朝鮮半島諸国を倒す力はなかったように思います。中国にとって、戦力になるほどの武力を持っていたのでしょうか?

4〜5世紀の倭国=ヤマト王権が、実質的にどの程度の武力を有していたのかは、漢籍、朝鮮半島の碑文等に断片的な記述を確認できるばかりで、明確ではありません。ただし当時の王権が、鉄の供給地として重視していた半島南部における利権を維持するため、何…