全学共通日本史(08秋)

先生のブログに『ICO』『ワンダと巨像』『大神』というテレビゲームが並べて紹介してありました。これらは、先生のいうアニミズムや、神々と自然の不気味さをよく表していると思いますが、先生のお考えはいかがでしょう。

そうですね、これは比較して論じると非常に面白いテーマだと思います。前二者はどちらかというとヨーロッパ的(北欧もしくはイギリスの臭いがします)なアニミズムを湛えていますが、石と草原が主要な舞台で、森林がほとんど出て来ないのが特徴的です。精霊…

宮崎駿が、アニメーションは体験に基づいて描くものとしていることについて。体験したものでないと描けないのであれば、死ぬシーンは死んでいない人間には描けないと思います。説得力のない表現に共感できないのには同意しますが、私は経験を超えた表現は必死になって想像するという愛情に基づくものであればよいと思うし、またそうでなければならないと思います。表現というものは。

基本的にはぼくもそう思います。人間にとって最も大事なのは想像力で、それによって経験を超えることも可能です。しかし自覚しておかなければならないのは、その想像力にも限界があり、またその可能性は経験によって培われるということです。質問では「死」…

『ラピュタ』はアニミズムに関係ないのでしょうか?

関係ありますね。とくにラピュタの核が巨大な樹木であり、そこに動植物の楽園が広がっていること、人間が存在しないことが重要です。地球軌道を回る巨樹の絵は美しいですが、しかし、アニミズム的な意味での深まりはあまりみえません。人間と自然との関係も…

宮崎駿は、自然と人間との関係など、子供たちに問題意識を持たせたいと思って作品を作っているのでしょうか?

子供が面白がってくれるか、楽しんでくれるかというのが重要な課題でしょうが、「子供が生まれてきて良かったと思えるように」という発言を最近よくしています。「よかった」の前提には、とうぜん「よかったのか」という疑問、もしくは絶望があるわけです。…

『ポニョ』のラストシーンですが、なぜ生命力溢れるような終わり方ではなく、母親同士の話し合いでエンディングを迎えてしまったのでしょうか。

これもいろいろな解釈が可能でしょうね。これは非常に男性的な意見ですが、宮崎駿にとって、やはり命を産み落とす母親は自然の代名詞なのでしょう。男性=文化、女性=自然という意味づけは、フェミニズムやジェンダー研究によって、女性の可能性を限定し束…

宮崎駿は『ポニョ』を作るとき、『人魚姫』からキリスト教色を払拭したものを題材としたようですが、ポニョが水の上を歩くシーン、確かイエスも似たようなことをしていましたよね?

「キリスト教色を払拭」というのは、キリスト教が護教的に自己を正当化し、その教義を強制し、それに反するものを排斥するベクトルを除くという意味でしょう。水の上を歩くという神話的表現は、何もイエスの専売特許ではありません。絵コンテに書いてあるよ…

補足資料に出てきた、「寝かせたガラスに描いたように平らなやつが、ゆっくり回りながら遠ざかってゆく」というところのイメージが湧きませんでした。どういうことなんでしょうか?

これは想像力が試されるところでしょう。読んで字のごとくで、ガラス板に描いたような二次元的な絵が、ゆっくり回りながら遠くなって行くということですね(何の説明にもなっていないか)。『銀河鉄道の夜』のなかに、黒曜石でできた銀河の地図が出てきます…

『千と千尋の神隠し』を心理学的にみると、少年少女の成長を表しているのだと聞いたことがあります。同じ映画でも、アプローチの仕方でずいぶんみえてくるものが違うのだと思いました。

映画というものは、必ずしも制作者の意図に従って観なければいけないというものではありません。ただし作家論として考えるならば、「少女の成長を描いている」という〈分かりやすい見解〉は、宮崎駿の意図とは違っています。彼はインタビューのなかで、「『…

ハクが最後に千尋と別れる際、現実世界でまた会おうというようなことを言ったというが、そこにはもうハクの居場所はない。ハクはそれを理解していなかったはずはないと思うが、なぜそんなことを言ったのだろうか。

いろいろな読み方ができると思いますので、何も正解を見つける必要はないでしょう。個人的には、これもアシタカの最後の台詞と同じ〈希望〉であると考えます。琥珀川は埋め立てられてしまったけれど、そこを流れていた水は、恐らくは地下水として巡っている…

神様の名前の話のところで、千尋とハクが本当の名前を奪われるというエピソードを思い出しました。『ゲド戦記』の原作でも、名前はとても重要なものとして描かれていましたが、古代の人々は名前をどのように捉えていたのでしょう。

古代においては、名前はひとつの物語です。氏族の持つウジ名やカバネ名は、自分たちの生活する地域との関係、王に奉仕するに至った理由などを体現する記憶装置でもある。名を負うということは、物語を背負う、父祖から自分へと繋がる歴史を担うことでもある…

先日たまたまCMを見ていたら、宇宙飛行士の毛利衛さんが木に囲まれた道を歩きながら、里山について「日本人は古くから共生のあり方を知っていた」というような発言をしていました。CMになるほど、現代の里山認識は間違っているということでしょうか。

このCMについては、以前にも講義のなかで言及しました。まさに歴史的認識の欠如した里山観で、残念なことにこちらの方が一般的な考え方なのです。現在の環境問題は政治や経済と密接に関係していますし、共生概念は日本人のアイデンティティを表すものにもな…

対自然の問題に関しては、ある意味人格を持った弱い存在と捉え、その痛みに対峙することも必要だなと思った。ナウシカから学んだことは、弱さを貫くこと、関わりのなかの敗北を引き受けることのなかで生じる、様々な自分の死を死に続けたら、一体人間はどのようになっていくのだろうということである。

凄く難しいことを書いていますね。人類文化に普遍的な〈死と再生〉の思想に準えていうなら、死に続けることは新しく生まれ続けることでもあるということになります。勝利/敗北、生/死などはいずれも相対的なものですから、一方へ追い込まれたときは必ずも…

「非決定」という考え方を初めて聞きました。中立というと立派かも知れませんが、ただ決定を避けることは弱さだと思います。この考えでは何かを決めること以上の決断力や意志が必要になるのではないでしょうか。

非決定については、決定をすることの方を弱さと考えるのです。実は、人間は安定性を志向する生き物ですので、どっちつかずの情況に自分を置くということは、心身に大きなストレスをかけることになります。どこかに身を置いて安定したいという欲求が、友人関…

ジブリ以外の作品で、先生が思う自然や歴史観が詰まった邦画がありましたらぜひ教えてください。

どうでしょう。洋画にしても邦画にしても、ちゃんと論じることのできる作品はあまりない気がします。以前、茨城大学で「日本と世界の歴史」というタイトルの集中講義をしたとき、『もののけ姫』と対の教材になるような洋画を探したのですが、ピンとくるもの…

『もののけ姫』で、サンはあくまで人間であり、人間の言葉を話す。人間も自然のなかの存在であるという主張なのかも知れないが、この映画だと意志の疎通ができる自然であり、現実とは異なるから、ここに何か問題がある気がする。

そうですね。『ナウシカ』の王蟲はまったく人語を話しませんからね。ただし、シシ神や木霊は人語を解しているのかどうかも分かりませんし、サンもその声を聞き取ることはできません。自然の核になる部分はやはり人間には理解しえないものだ、その思考の枠組…

『もののけ姫』で、猪神の乙事主が、「自分たちの種族は小さくバカになってしまった」といっていた。つまり猪神がただの猪になってしまったということか。犬神は狼に、猩々は猿になってしまったのだろうか。人間ももとは神であったのか気になった。

ああ、どうなんでしょう。そういう世界観で読み解くことも可能なのかもしれませんね。『播磨国風土記』などでは、国譲りで有名なオホクニヌシなどは巨人として語られていますからね。ただ、シシ神の夜の姿であるダイダラボッチは、そういう巨人伝承の形象化…

室町時代に自然への畏怖がなくなっていった、自然が人間にとって支配可能なものになっていったということについて詳しく知りたい。 / 和辻哲郎の『風土』では、その地域の自然との関わり方を述べている。そのなかで日本は、自然と共生しながら生きてきたとある。それがなぜ室町時代に「シシ神」を殺すことになってしまったのか疑問に思った。

以前多少説明したような気がします。少なくとも、「日本が自然と共生してきた」といえるかどうかが甚だしく疑問である点は、講義の1回目から口を酸っぱくして語ってきました。もしそれを聞いていないのだとすれば少々萎えますが、講義を聞いたうえでさらな…

神々の世界にもヒエラルキーを持ち込んでしまう宮崎駿ってすごいです。アニミズムの神話世界(ギリシャ神話など)ではヒエラルキーってつきものなんですか?

アニミズムの最も古い形式は、もちろんヒエラルヒーなど持たないと思います。人間生活の変化に応じて神の世界も変容してゆくわけで、例えば農耕社会に移行すると、農耕に直接関わりのある太陽神や雷神(大地を母とみるとき雷は父であり、その落雷=性交によ…

『もののけ姫』における人語を話す神/話さない神は、動物/植物という分け方のようにもみえます。生物とそれを動かす原理、もしくはそれに宿る神という対立のようにも感じます。植物性だけではない岩などにも、神が宿るという考え方はどうなのでしょうか?

レジュメにも書きましたが、もちろん植物性を持つか否かで類別することもできます。木霊はともかく、鹿をモチーフにしたシシ神になぜ植物性?と考える人もいるでしょうが、鹿の角や足はよく樹木の枝や幹に喩えられたりするんですね。シシ神の角は、通常の鹿…

古代の人は、「木霊」のように、何にでも神や霊が宿ると考えていたのですか?

それがアニミズムという原初的な宗教の形態です。近代的学問に支えられた世界観を持つ私たちは、身の回りの命について考える場合、まず生物/無生物という類別を持ち出しますが、アニミズムにおいてはそうした差違はありません。森羅万象のあらゆるものに神…

北條です。質問ではなかったのですが、幾つか考えさせるコメントがありました。下に紹介しておきたいと思います。

1)『ナウシカ』は映画しか見たことが亡くて、「マンガ読んだ方がいいよ」と言われていたのですが、今日、その理由が分かりました。確かに問題は解決していないですね。あと、「理解できないものとしてつきあっていく」態度を、深めて考えたいと感じています…

北條です。以下の二つは、なかなか面白い質問でした。これ、場合によってはレポートの課題にするかも知れません。とりあえず下に掲示しておきます。

1)私たちが食べる前に「いただきます」というのは、「(命を)いただきます」という意味があると聞いたことがあります。そういう意味で食前/食後に使う言葉があるのは日本だけなのでしょうか?2)どうして日本は、他の国と比べて動物の擬人化が過度なのだ…

式年遷宮が20年から21年に変わったのには、何か理由があるのでしょうか。

20年の式年造替が破綻してゆくのは、内宮でいうと元亨三年(1323)、外宮でいうと正中二年(1325)のことです。恐らく、元寇から鎌倉幕府滅亡に至る社会的混乱が原因で、遷宮を支える経済的基盤が安定しなかったせいでしょう。その後、応仁の乱によるまった…

アルカイック・スマイルをあえてトトロで使っているのは、何か意図があるのでしょうか。

トトロだけではなく、宮崎駿の場合、人間の理解を超越した神霊にはそうした表現を用いているということなのでしょう。かわいいのに不気味という不思議なニュアンスは、『千と千尋』の湯屋にやってくる神々や『ポニョ』のポニョ自身にもいかんなく発揮されて…

今まで『ナウシカ』を感動的な話だと思っていましたが、今日の話を聞いてイメージが変わりました。でも、人間が自然を壊し、自分勝手にやっても、自然はまたチャンスをくれるという意味のように考え直してしまいましたが、それは先生の仰った「自然に対する甘え」なのでしょうか?

まさに、それが日本人の自然に対する代表的メンタリティーなんですね。それは、豊かな自然環境(自然の回復力が強い)とそれに適応した人々の生活史、政治や宗教の様々な複合的作用によって作られてきたものです。『もののけ姫』の公開当時、もっとも多かっ…

雅楽の楽器ショウはどのような字を書くのでしょう。先生は実際に吹いたことがありますか? また、他にはどのような楽器があるのですか?

ショウは「笙」と書きます。割合に簡単に音は出ます。他に吹きものでは、篳篥(ひちりき)、龍笛などが有名です。前者は東儀秀樹がよく吹いている短い縦笛、後者は一般的な横笛です。篳篥は吹くのが難しく、コツがあるので、顔を真っ赤にして力一杯吹いても…

木簡の難波津の歌が興味深いです。表裏で重複しているのは練習だからでしょうか。また、万葉仮名というのはひらがなのもとですか?

そうですね。漢字が固定化していないのがまた面白いところで、いろいろな表記を試していたのでしょう。万葉仮名は、その使用を通して、やまと言葉を表記する漢字の音が決まってゆき、やがてその一部や全体を用いて片仮名や平仮名が作られてゆきます。

日本人の秩序やモラルは、儒教の礼を通じて構築されていったのですか? / 古代にも身分秩序はあったと思うのですが、成り上がりのような存在に対してどのような感情が抱かれていたのでしょう。

とうぜん、神祇信仰や仏教に由来するものもあるでしょうが、儒教に基づくものが多いです。とくに近世の幕藩体制下では儒教的秩序が重視されましたので、日常生活における礼儀作法はほぼ儒教に拠っているといえるでしょう。例えば面白いのは仏壇で、仏教に由…

飛鳥宮は最終的に飛鳥寺を内包していったという見解がありますし、浄御原宮のエビノコ郭は大極殿ではないかという議論もあります。天武・持統朝に、王権の象徴性を高める努力がなされていた証拠とみていいでしょうか。

もちろんそうでしょう。天智朝の近江大津宮には、内裏の西殿に仏殿があったという記録が残されていますが、国家守護のために神祇信仰と仏教を併用しようとしていた当初、宮自体にも仏教的機能を内包させようという意図があったのかも分かりません。藤原宮で…

水による清めの重要性は分かったのですが、古墳時代などに用いられていた火の清めはどうなったのでしょう?

やはり火は危険なので、水ほど利用はされなくなってゆきます。しかし、現在まで盛行している使用例があります。いわずと知れた火葬です。火葬はアジアでは仏教者を中心に展開し、日本では、考古学的には須恵器製造業者の周辺で、文献的には飛鳥〜奈良時代の…