全学共通日本史(12秋)

草木成仏論についてですが、樹木が伐採される際に、それらの成仏を願う儀礼などは存在したのでしょうか。

以前にここに書いたと思うのですが、在来の神祇信仰の文脈で、伐採した樹木の精霊を精霊の世界へ送る祭儀は存在しました。現在でも普通に斎行されていますし、大規模なものは神社の式年造替で行われています。伊勢神宮や出雲大社の式年遷宮、諏訪大社の御柱…

〈動物の主〉神話には過度の狩猟を抑制する機能があったとのことですが、樹木伐採に関する神話にはそうした機能はなかったのでしょうか。

樹木伐採関係の神話伝承のなかでも、主に伐採に対して樹木が抵抗を示す、激しい場合は伐採者に病を与えたり怪我をさせたり、死に至らしめたりするというものがあります。それは、過度な伐採への抑制機能を持っていたと思われます。なかでも、山林における過…

日本には樹木を信仰の対象として祀るという文化があります。これは、昔からの豊かな自然を背景に成立したと思い込んでいましたが、もし樹木が少なかったとすると、どこから派生してきたものなのでしょう。

日本列島の森林の歴史にも時代による変化があり、縄文から現代に至るまでずっと草地ばかりだったわけではありません。それなりに森林が豊かな時期もあり、その点で樹木信仰も醸成されたのです。しかし神木等々の信仰に限っていうと、実は、周囲にほとんど山…

「一切衆生悉有仏性」の「一切衆生」は、すべての生きとし生けるものを指すわけではないとのことでしたが、どういうことでしょうか。

仏教では、万物を有情/無情に分ける把握の仕方があります。前者は心あるもので生命を指し、後者は心のないもので無生物を指します。衆生は前者のみを言い換えた表現ですが、初期の仏教は、草木を無情の方に分類していたのです。これは、殺生戒の遵守を通じ…

今話題のご神木殺しは信じがたい悪行ですが、しかしこれは、神社仏閣などの歴史的建造物を修復するための、巨大な材木の需要があるからこそ起きることでしょう。搾取ばかりしているからこうなったのですね。

そのとおりですね。寺社の建築に巨木を用いることは、その樹木が神聖な意味付けをされていても、いやされているからこそ使うべきと正当化されてきました。例えば中国南北朝の段階で、寺院を建てるための材木を山の神が喜んで差し出す、という話が僧伝などに…

和食は一般の人々の食事ではなかったとのことですが、健康によいといわれているのでそのままでも構わない気がします。

うーん、これはどういう意味なんでしょうね。成立云々のことは関係なく、健康に良いのだからそれでいいではないか、という見解なのだとしたら、もう歴史学自体を勉強する意味がありませんね。歴史学とは、その過程を通じて結果を捉えなおす学問なのですから…

イネは元来日本の環境に適合した作物ではないとのことですが、いま日本で作られているモチモチした米に、本当に合った国はないということでしょうか。

日本列島でいま食べられてる米は、日本の風土に合うように、また「日本人」の口に合うように品種改良してきた結果の産物ですので、それは環境に適した作物ということになるでしょう。いえ、厳密にいえば「適合させてきた」作物であり、水田とその周辺環境も…

神社の起源は水源の祭祀にあるそうですが、すべてがすべてそうなのでしょうか。火、その他のものを信仰した例はないのでしょうか。

はい、すべてがすべて水の祭祀に関わりがあるわけではありません。なかには、沖の島のように嶋とその周辺環境を神聖化したものも存在します。火山を崇拝したものなど(まさに火ですね)、対極に位置するといってもいいでしょう。しかし、古墳時代の祭祀遺跡…

神社が、人間の欲望を肯定するものであるのは、日本人が無宗教であることとも関係するのですか。

よく日本人を無宗教であるというのは、あくまで西欧の価値基準に従って、キリスト教を宗教の典型とみなして述べるものです。日本列島にはその環境に根ざした宗教の形があり、それは必ずしもキリスト教的である必要はありません。日本列島では古くから自然信…

文化を形成するうえで、自然を殺すことがあるのはやむをえません。しかし世界に、本当の意味で「共生」している人間はいるのでしょうか。いわゆる民族社会の人たちは、自然と共生しているといえるのでしょうか。

本当の意味での共生とは何でしょうか。いずれにしても、「共生」の定義が問題になります。人間が、自然環境を自分の生活に適した状態へ作り替える(文化構築)生き物であり、それが生存戦略であるとすれば、相互不可侵の状態で共栄を目指すことはそもそも不…

戦後日本の無計画な植林のせいで、さまざまな問題が起きていると聞いたことがあります。今回の授業で扱った獣害や、花粉症の増加は、そうして起きたおとなのでしょうか。日本人が自然をどのように扱うか、古来の自然観とデカルト以降の近代の自然観の折り合いが、うまくいっていないように思います。

その地域環境本来の植生を無視して、林業に役立ちそうな杉林だけを植える、というのは確かに問題です。花粉症の一端はそこにあるでしょうが、同症状はそれに自動車の排気ガスに含まれるカーボンなどの影響が加わった複合汚染であり、恐らくは都市住民の食生…

宮崎駿は、高畑勲の礼賛した人と自然の共同作業=里山に対し、人に触れられていない自然、触れさせない自然を描いた。「原」風景という意味では、後者の方が優れた作品といえるでしょうか?

そうですね、『もののけ姫』に登場するシシ神の森は、屋久島等々に取材して造型したものですから、できるだけ人間が足を踏み入れられないような、畏怖すべき自然の姿を描こうとしたのでしょう。しかし結局、ラストではシシ神の森はなくなって、里山にみるよ…

ジブリ作品について、『風の谷のナウシカ』は里山とは違いますが、やはり環境を扱ったものではありませんか?

自然を扱ったものとしては、コミック版『ナウシカ』の方が深く複雑で、自然/人間の二項対立を描いた『もののけ姫』より優れている、とぼくは思います。『ナウシカ』の自然=世界は『もののけ姫』のそれより強靱で、腐海を生み出しつつも浄化と回復を続け、…

日本の昔話は室町時代頃から存在したと思うのですが、江戸時代を通じて現代に至るまでの間に変化はしてきたのでしょうか。

例えば、授業で扱った『桃太郎』など、江戸時代を通じても内容に変化が生じます。よく知られているのは、川上から流れてきた桃から桃太郎が生まれてくるパターンと、桃を食べて若さを取り戻した爺さん・婆さんが子供を産む、というパターンの2つが確認され…

世界遺産の白神山地も伐採されていたそうですが、その植生や景観はかなり変化してしまっているのですか?

白神山地については、弘前大学の長谷川成一氏の研究によって、近代以前の植生が詳細に明らかにされています。それによると、17世紀前半の白神山地は針葉樹の群生が中核をなしていたものの、授業でもお話しした近世初期の大開発によってヒバやスギなどが盛ん…

農業技術の発展に、気候の温暖化が関係していると知って驚きました。それ以外に、温暖化によって新たに生まれたもの、発展したものはあったのでしょうか。

古い時代でいえば、例えば漁業の発展です。現在の日本の食文化には魚食の占める割合が大きいですが、その基礎が作られたのが、温暖化の環境変化に適応しようとした縄文の食文化なのです。氷河期が終了して気温が上昇してくると、これまで大型哺乳類が跋扈し…

近代までの日本の景観に草地が多かったとすると、いまあるたくさんの樹木はどこから来たのでしょう。 / いくら日本列島の自然の回復力が強いからといって、さんざん使い込んだ挙げ句に放置しても、自然に戻ることができるのでしょうか?アフターケアも大事ではありませんか?

人間が手を加えることで現状を維持していた森林などは、その「保全」の取り組みを止めてしまうと、様々に綻びが生じて植生が変質してゆくことになります。それは、生きている樹木ならば当たり前のことで、草木の生まれては死んでゆくさまが繰り返されるうち…

遷都を繰り返し、森林が失われていったというお話でしたが、跡地に植林された等、失われた森林を回復しようとする動きはなかったのでしょうか?

日本で本格的な植林が行われるのは、近世以降に過ぎません。それまでの山地利用は、ほぼ自然の回復力に頼ったものでした。よって、人間による開発が自然の回復力を上回ると、禿げ山のような状態が長期にわたって持続したり、土砂流出、河川の天井川化による…

農民が鎮守の森を伐採したとのことですが、神聖な寺社所有の森を伐ることに抵抗を覚えなかったのでしょうか。

もちろん一部には、聖域を侵蝕すること、神木とされるような樹木を伐採することへの畏れ、抵抗は存在しました。私は以前、「樹木が伐採に抵抗し、切り口から血を流したり、伐った人間が病気になったり頓死したりする」伝承の類を、北海道から沖縄まで所在調…

古墳や大仏を造るには、相当な量の時間と人力を費やしたと思いますが、それにもかかわらず、あれほどたくさん造ってきた背景は何だったのでしょう。宗教以外の理由はあるのでしょうか。

やはり、権力の象徴であったからでしょうね。古墳に関していえば、一定の環境開発を前提に築造されるわけですから、自然を制圧したモニュメントともいえるわけです。また各古墳では、カミとなった被葬者を祀りつつ、現首長が神的な力を手にするための諸儀礼…

私は千葉に住んでいますが、船橋市にも「芝山」という場所があります。授業で出てきた「芝山」に由来するのでしょうか?

国立公文書館のデジタル・アーカイブで確認できる元禄「下総国絵図」をみてみると、ちょうど葛飾郡と千葉郡の境界付近かと思うのですが、平地で山などの描写は確認できません。ただし、周辺は水田化が進み、干拓事業が展開された印旛沼も近いので、草山・芝…

前近代においても、環境破壊が問題視されることはあったのでしょうか。 / それでも、日本人の自然観の根底には、「畏れ」があると思うのですが、どうでしょうか。

次回の授業でお話ししますが、それが災害に発展した場合には問題視されます。記録に残るのは王権や政府のものですが、一般の村落共同体レベルでも、過度の破壊によって手痛いしっぺ返しが生じた場合には、開発を抑制するなどの措置が取られたでしょう。それ…

「人間が作り出した自然」というものについて、否定的な考えを持つ必要があるのか? / なぜ私たちは、「人の手が入っていない」自然を大事と考えているのでしょう?なぜ人工は天然に劣ると考えられているのか、何がそうさせているのか、疑問に思いました。 / 現代において自然を破壊することは悪いこととされていますが、昔の人々は生きるために自然を利用し開発を進めていました。これを悪いこととは思いませんが、こうした認識の違いはどこからくるのでしょう?

近代という時代は、文明の発展のために自然を素材として用いてよい、自然から解放されそれを制圧することこそ人間の宿命である、と考えられてきました。この単元の冒頭でもお話ししたとおり、しかしそのことが地球環境のバランスを崩し、幾多の環境問題を生…

先生は、人間が自然を制圧して共生してゆくという意味ではなく、お互いがそのまま共生してゆくことが可能だと思いますか。また、その意味での共生が困難だとしても、これから人間はどのように自然と付き合ってゆくべきだと思いますか。

文明が永久に拡大・発展を続けようとするその傾向に歯止めをかけ、生物多様性の維持された環境が現状より悪化しないよう、注意してゆくことが理想です。そのためには、生態系に対するより深い研究と、ある程度の管理的介入が必要となるでしょう。しかしそれ…

以前にある先生から、「今の日本史の定説へ反論を述べると、右翼的な保護者から猛烈な嫌がらせ受ける危険性があるから覚悟しろ」といわれました。これも、専門家と社会の間に議論を設けることで、解決できるものなのでしょうか。そもそも、二者の間に議論を設けるにはどうすればよいでしょうか。

例えば、「つくる会」系の教科書については、歴史学者と教育学者が作るさまざまなネットワークが、書籍を作ったり、シンポジウムを開いたりして批判をしています。彼らの主張は論理的には破綻しているのですが、その目的は歴史的事実や論理性を超越したとこ…

高校で歴史学的側面を採り入れることは、教員や生徒にも新たな負担となるうえ、コアなテーマだと関心も薄れて有意義な議論にならないのではないでしょうか?

冒頭でお話をしたように、だからこそ既存のカリキュラムに手を加え、例えば必修の「世界史」に替えて、「歴史基礎」などの思考型の授業を新設すべきだと提案されているのです。題材の選択には注意が必要ですが、これを負担と感じるようでは、教員にも生徒に…

昔の人は何事も記録をしたようですが、例えば天皇や将軍が、何か書かれて困ることはなかったのでしょうか。 / 『日本書紀』には、天皇に対するマイナス・イメージなどは書かれない傾向があるとのことですが、この時代に信頼できる歴史書はないということでしょうか。

王の一挙手一投足を記録する史官の話は、あくまで中国のものです。日本の場合はかなりアバウトでした。権力者の記述については、当の権力者側の史料である限り、一定のバイアスがかかっていたとみるべきです。これまでの回答にも示しましたが、この世の中に…

天皇の血筋の神聖性が確立されたのは近代である、とのことですが、日本は実質的に政治を行う組織は代わっても、常にトップは天皇だったのではありませんか?

授業では「我々が考える」と形容を付けておいたと思うのですが、現在の我々が考えるような、国民一人ひとりに神聖性の定着した天皇像は、近代以降に作られてきたものだということです。また、高校日本史や受験日本史では、天皇は宗教的権威を保持し、将軍は…

おん祭りで「染膳」が出てきました。あのような鮮やかな色は、古代から出せていたのでしょうか。また、それぞれの色には何か意味があるのですか。 / 「染膳」に関して、緑のものを「青」と表現するナレーションがありました。今でも緑を青とする言語文化はありますが、おん祭りが確立された当時、現在の緑に相当する色彩感覚はなかったのでしょうか。 / 神に供えられるお米や木の実、染め物・盛り物などの供物には、いったいどのような意味があるのでしょう。

「御染御供」のことですね。これは、春日大社に伝わる特殊神饌のひとつです。神に供えられ、本来は直会の場で神人共食に供される神饌は、もともとは個々の神社の特性に基づいて供献されていました。簡単にいえば、山の神には山の幸、海の神には海の幸が供え…

授業で紹介された初期の久米歌について、山で網にかかった「鷹等(クチラ)」は、鷹なのでしょうか鯨なのでしょうか。どちらの信憑性が高いと思いますか。

歌や説話というものは生き物です。現在我々がみることができる古代の歌、説話は、文字によって固着された書き物でしかありませんが、本来は歌われる場、語られる場によって、言葉や表現、強調点等を変える、融通無碍な存在であったはずです(歌の引用の後に…