全学共通日本史(12秋)

久米歌が、民謡から軍事的な歌へ変容してくる背景には、何か大きな変化があったのでしょうか。

大まかにいえば、結束を高めるための郷土の民謡から、士気を鼓舞するためのいくさ歌へという変遷があり、その背景には王権の確立とそれに基づく征服戦争の進展があるのだと思います。すなわち、王権の軍としての自覚を高めるために、上からの鼓舞に用いられ…

「樹下の芸能」について。平安時代の蹴鞠も4本の木の本で行ったとのことですが、蹴鞠も奉納するような芸能だったのでしょうか。

いわゆる「遊び」は祭祀から分離したものだと考えられています。現在に伝わる子供の遊びのなかに、卜占や呪術の名残があるのもそのためです。例えば柳田国男など、かごめかごめや目隠し鬼などについて、本来は神意を知るための方法だったものを、子供の文化…

樹木信仰は世界各地でみられますが、中国や朝鮮の信仰では、「小さいもの」「子供」のイメージが強いように思います。おん祭りでは、東国の舞を子供が舞っていましたが、何か関係があるのでしょうか。

確かに子供の姿をした木霊が登場する神話、伝説は存在しますが、必ずしもそれが一般的というわけではありません。樹木の神の姿としては、古くは牛、蛇、白頭の老人など、極めて多様な存在形態を示します。日本では、木霊が人間の男性と結婚するという「三十…

かつては政治的、宗教的意味を強く持った芸能に、娯楽としての意味が強くなったのはいつ頃のことでしょうか。

やはり、室町から江戸にかけてでしょうね。現在の能、狂言、歌舞伎などの基礎が確立される時期です。とくに大名の庇護を受けて座が設けられたり、市中の上演によって民衆化が進むなかで、急速に芸道あるいは娯楽としての色彩を強めてゆきます。しかし現在の…

春日若宮おん祭りで奉納されるような田楽と、庶民が田植えの際に踊った田楽とは、根源を異にするものでしょうか? / 猿楽とは物まねであるとの解説が付いていましたが、何を真似るのでしょうか。

基本的には同じです。専門芸能者が行った田楽は、農民たちが農作業に伴って踊った田遊びなどに材を得て、外来の要素等も採り入れ芸能化したものです。やがて形式化されたそれらを庶民がまね、逆輸入?の形で村落の芸能にも影響を与えてゆきました。寺社の祭…

舞の際、仮面を付けるのにはどのような意味があるのでしょうか。異国の人の顔立ちを表すため、ということはありますか。

外来の舞楽では、もちろん、異国人を表す面(胡人など)が存在しますので、演じる役に応じて仮面を付けるということが行われました。日本列島では、古く祖先を演じたと推測される縄文期の仮面が出土していますが、仮面は芸能の場で何者かに姿を変える、変身…

礼楽には右舞・左舞があるとのことでしたが、1つの神社に両方があるのでしょうか。地域によって分けられているのですか?

映像で紹介したのは、あくまで「春日若宮おん祭り」に奉納される芸能のことですので、全国の各寺社で同じような神事がなされているわけではありません。奉納の神楽や能を行っているところは多々ありますが、これだけ古い、多様な芸能を保存し奉納し続けてい…

雅楽ですが、西洋音楽に慣れ親しんだ私には違和感がありました。そもそも、フレーズやメロディーは存在するのでしょうか。また、舞の上手さ、下手さなどを理解する感覚は、見続けることによって養われるものでしょうか。

まあ、映像では各舞の一部、その伴奏となる楽を細切れにしか聴かせていませんので、何だか分からないのも無理はないでしょう。きちんとしたリズム、フレーズ、メロディのある楽曲が存在しますので(小学校や中学校の音楽の時間に、習ったことがあるのではあ…

楽府は外交使節の迎接の際に必要だったとのことですが、その場合、軍事的色彩の濃い在来系の群舞が行われたのでしょうか。私が使節側だったら、武器を持たれていると怖ろしいうえ、戦意を高めるような歌を歌われても謎に思うと考えます。

そうですね、武器といっても儀式で用いる儀仗ですので、危険はありません。また(舞台となる空間の大きさにもよりますが)、いつでも襲撃できるような直近にて観覧するわけでもないと思いますので、その点では問題はなかったでしょう。なお、使節に王権成立…

在地の芸能が服属儀礼として捧げられるのは興味深いと思いましたが、逆に、服属を強いられた自国・地域のアイデンティティーを芸能に込める、伝え続けるということは行われなかったのでしょうか。

重要な着眼です。しかしむしろ、郷土のアイデンティティーがそのなかに表現されているからこそ、それを王の観覧に供することが服属儀礼になるわけです。しかし『日本書紀』神代下/第十段一書第四には、隼人の祖先ともいう火酢芹命(海幸)が、弟の火折尊の…

春日若宮おん祭りではさまざまな舞が舞われていましたが、男性が舞うものと比べ、女性が舞うものは少ないのでしょうか?

やはり男性が舞うものの方が多いですが、女性が舞うもので有名なのは「五節舞」ですね。天武天皇が考案したと伝えられ、孝謙・称徳が皇太子時代に初めて舞ったものです。後に集団舞となり、平安期には舞手の舞姫が有力貴族から推薦・献上されて天覧を受け、…

芸能が歴史叙述のなかで関わってくるのは、単に儒教的な礼楽思想からの影響でしょうか。そもそも、芸能が日本の古代の歴史のなかでどのような役割を担っていたのか、興味があります。

上の回答でも述べたように、共同体に伝わる歴史=神話は、語り部によって伝承され物語られたり、祭祀の場において神事=芸能として上演されたりしてきました。日本列島では、縄文中期頃から舞台のような円形の祭祀場が作られ、そこから土で作られた仮面など…

今日観た映像の「春日若宮おん祭り」ですが、楽器を演奏したり踊ったりしている人たちは、寺社の関係者でしょうか、それとも芸能のプロなのでしょうか。もし雇用しているなら、その資金源も知りたいです。

確か、大和猿楽四座が奉納しているはずです。これは、興福寺や春日大社の神事に奉仕してきた芸能集団で、現在は宝生座・金剛座・金春座・観世座からなります。いうなればプロですね。奉納神事ですから本来は無報酬でしょうが、現在は何らかの名目で謝礼が支…

若宮という存在は、神々の子というより「生まれ直し」の意味合いが強い、というお話が興味深かったです。輪廻転生を基本概念とする仏教圏であれば、そのような例は多いのでしょうか。

日本の神祇信仰の本質は、自然現象を表象することによって構築されています。授業でもお話ししましたが、季節が春から夏、秋、冬、そしてまた春へと巡ってゆくように、神霊もまた死と再生を繰り返すものと考えられたのでしょう。春日大社に限らず、若宮の誕…

「乙巳の変の演劇性」が、けっきょく何を意味するか分かりません。事件→脚色して演劇として上演→その物語性の強い話を事実として記録、ということでしょうか。

物語の過剰なストーリー性、読むものを意識したダイナミックな展開・舞台設定、散りばめられた漢籍故事との類同性、俳優の存在などを総括して「演劇性」と表現しました。『日本書紀』に掲載される乙巳の変の記事の原型が、宮廷歌舞の背景をなす物語として構…

そもそも「舞」の起源はいつ頃なのでしょう。なぜ人々は、踊りから神々への祈りを表現しようとしたのでしょうか?

起源はいつなのか、確定するのは難しいですね。しかし、人類の行う祭祀のなかに、通時的にも共時的にも舞踊の要素が普遍的に存在することからすれば、音楽や舞踊は祭祀とともに始まったといってよいかもしれません。歌や舞はトランス状態を導き神の言葉を告…

天皇の継承順については、やがて父子相続が一般化してゆくようですが、男子に限定されてゆくのはなぜなのでしょう。女性天皇もいたはずですが、なぜだめになったのでしょうか。

女帝問題は難しいのですが、皇位は家父長制的な嫡系継承を理想とするようになってゆきます。奈良時代には、皇位継承の法則として「天智天皇が定めた『改むまじき常の典』」が持ち出されますが、これは中国的な父子継承のことを意味するのかも分かりません。…

飛鳥寺と法興寺ですが、当時はどちらが一般的に使用されていたのでしょう?

飛鳥寺は地名に因む名称、法興寺は寺の属性に関わる名称で、『書紀』では同じくらいの頻度で用いられています。土地と関わって呼称される場合には前者、寺自体の意味付けに関わる場合には後者、ということになるかもしれませんが、どこまで厳密に使い分けを…

「漏刻」とは、実際にどのような役割を果たしたのですか。

時間を決定する装置ですので、時を測り、決められた時間に鐘や鼓で時報を鳴らす役割を担いました。講義で扱ったように、飛鳥には世界の中心を標榜する須弥山が置かれましたが、これが王権による空間の支配だとすれば、漏刻を設置し時刻を設定したことは、時…

他国の歴史書から引用を行うことには、どのような意味があったのでしょうか。 / 乙巳の変の物語ですが、中国の話などをいろいろ知っていたはずの当時の知識人は、この話がパクリだということに気付かなかったのでしょうか。 / 真似ばかりの書物で、権威付けが可能だったのでしょうか。

これは、奈良期、平安期にも続いてゆくことですが、漢籍の表現や逸話をいかに盛り込んで文章を作るかということが、漢文文化の教養と成熟を表す指標だったのです。中国では、歴史が政治運営における国家的倫理となっていましたので、歴史上の人物の言動や国…

当時の日本に、王=人間神という考え方は存在していたのでしょうか。

いい質問です。実は、奈良時代以降の「現御神」、すなわち人間でありながら神でもあるという天皇のありようが確定してゆくのは、7世紀末の天武・持統朝においてであって、崇峻の頃には明確ではありません。しかしそれは、自然神よりも上位にある天孫といっ…

三韓と蝦夷は、同列の存在として扱われていたのでしょうか。

もちろん、同列ではありません。蝦夷は文化の行き届かない、国家すら形成していない「野蛮人」という設定ですが、三韓は倭よりも中国に近く、優れた知識、技術を持っています。外交関係を結んだ国家であって、「朝貢国」といった位置づけです(実際は違いま…

レジュメの表をみると、持統天皇の頃には蝦夷の男女に冠位が授与されています。彼ら化外の人々には、単に王朝に服属するだけの存在ではない意味があるのでしょうか。

化外の民を王の徳治のもとに屈服させ、最終的には公民化してゆくことが、中華国家の王の理念でした。蝦夷に官位を授与することは、そのデモンストレーションとして行われたのでしょう。政治的な内実よりも、その点を喧伝する意味が強かったと思われます。ま…

初尾貢上の儀礼について、平安時代以降は殺生禁断や血への穢れ観が強くなってゆきますが、それでも四足獣が天皇へ献上されたのですか。

干し肉という形での肉食はかなり長期にわたって続けられてゆきますが、以前のように鹿が献上されたり、猪が献上されたりということは少なくなってゆきます。もっとも最後まで残るのは鳥で、とくに征夷大将軍(武家政権)から天皇に献上される雉は重要な意味…

初尾貢上の儀礼について、海の物は、日にちが経つと傷んでしまいそうですが、何か加工する技術が発達していたのでしょうか。

典型的なのは、乾燥食品と発酵食品です。前者は、具体的には干魚・干鮑など、後者は米・塩と漬け込んだナレズシです。鯛などのスシが贄として、土師器に入れられ運搬されてきた例が、木簡などにみられます。

服属儀礼の場で王殺しが行われたとき、その場所は引き続き同じ用途で使われたのでしょうか。現代の感覚では、殺人現場は近寄りがたいもののように思われますが…。

アニミズム的世界観では、生命の実体は身体に宿る精霊でした。例えば、アニミズム的な動物の送り儀礼の典型ともいえるアイヌのイオマンテでは、一体の熊を解体し、血・肉・皮・骨を村民で分け合います。現代的視点でみれば獣を殺しているわけですが、アイヌ…

『書紀』では、崇峻殺害は馬子の被害妄想であったように思われますが、事件後、馬子が危機的立場に立たされることはなかったのでしょうか。 / なぜ馬子は、擁立までした崇峻を簡単に殺害してしまったのですか。

『書紀』の記述だけが事実を伝えている、というわけではないでしょうね。現実にはいろいろ複雑な背景があり、改新政府の史観を受け継いでいる『書紀』は、蘇我氏の王権に対する行為を「悪辣」に描写しますので、あたかもすべての非が馬子にあるように叙述し…

王を殺した者に罰が当たる、といったことはなかったのですか。

共同体の王殺しは、共同体全体が相互の合意のもとに行うものなので、誰かひとりに責任が負わされるということはありません。しかし例えば、殷周革命を達成した周の武王が早世してしまい、後の時代にも「いかに暴虐の王であったとしても、臣下が主君を殺める…

フレーザーの挙げた王殺しの事例に、ヨーロッパのものはなかったのでしょうか。

もちろん、ヨーロッパの事例も扱われています。古代ギリシア、ローマの王たちから、ゲルマンの王たち、中世のアーサー王伝説などに至るまで、王殺しのモチーフが追究されてゆきます。しかし、ヨーロッパ世界において最も影響力のあった王殺しは、なんといっ…

歴史上、天皇家以外のものが、天皇を皇族もろとも葬り去ろうとしたことはあったのでしょうか。 / 王殺しは公的に認められたものだったのですか?

崇峻の例は、現役大王=天皇が暗殺された唯一の例ですね。しかし、親王や諸王には殺害の例があることを考えると、それは皇族の血というより、地位の問題だったのかもしれません。いずれにしろ、その地位や皇統が不明確であった6世紀以前は、大王家の継承に…