全学共通日本史(12秋)

かつては、凶事があると元号を変えていましたが、王殺しも同じような意味があるのでしょうか。

確かに、「リセットする」という意味では同じですね。王が変わることによって、王と世界との関係、世界のありようがリセットされる。まさに、王にあらゆる不都合なことのすべてを押し付け、あの世へ持っていってもらうわけです。現代日本の首相が頻繁に交替…

王殺しについてですが、中国の易姓革命はこれと同じものですか。

同じ、といっていいでしょう。とくに夏の桀王を殷の湯王が滅ぼし、殷の糺王を周の武王が滅ぼすという正統三代の移り変わりは、暴虐の王を英雄が倒し新王朝を樹立するというパターンですので、フレーザーのいう王殺しの要素を備えています。中国文明では、そ…

古代の日本では、儀式・儀礼が重んじられているようだが、現代の日本ではあまりみかけない。これらはどのように衰退していったのだろうか。

上の質問とも関連しますが、確かに衰退はしているものの、儀式・儀礼が日本列島からなくなってしまったわけではありません。正月の初詣、盆の墓参りなども宗教儀礼のひとつですから、われわれ日本列島に暮らす人間は、実はかなり宗教的な雰囲気のなかで生活…

樹木は神聖視されたということですが、寺院などに使う材木は神聖な木なのでしょうか。仏像なども含め、もし神聖な樹木を使用しているとしたら、神を傷つけることにはならないのですか?

重要な指摘ですね。実は、ぼくが専門的に研究してきたテーマがこれです。確かに現代的な感覚からすると、神の宿る樹木を伐ってしまうのは悪いこと、それこそ罰が当たる行為のように思われます。事実、前近代では「樹木が伐採に抵抗し、伐ろうとするものが突…

服属儀礼の場において、"水"が効果的な役割をしている点が興味深かったです。須弥山石の噴水は、斎槻が水を通す樹木であるのと同じように、水を通したいという意図でしょうか。川上から流れてくる神を引き入れるのだ、と考えてもよい気もしますが。 / 水をめぐる観念や儀礼も、仏教と同じく大陸から伝わってきたものなのですか。 / 水を清浄で神聖なものと扱っているのは、日本独特の文化なのでしょうか。

日本列島では、山地と海岸が近接しているせいか、中国などに比べて川を流れる水が清冽であり、それゆえに水への信仰が強かったという面はあります。ただし、水を崇めるのは日本だけかというとそうではなく、やはり万物の生命の根源として、世界中で信仰され…

飛鳥では、斎槻を中心にもともとあった自然信仰のようなものに、後から仏教が入ってきて、併せて聖なる地となったのでしょうか。もともとの神と、仏教の仏とは対立することはなかったのでしょうか。

史料が断片的で推測が難しいのですが、講義でお話ししたとおり、もともとは斎槻を核とする飛鳥の宗教的スポット(それなりに規模の大きなもの)であったと考えられます。飛鳥の斎槻の話は、その後、平安末期の『今昔物語集』にも出てきますので、古代を通じ…

大伴氏は、大伴親王が立太子したことでその名を避け、改名したと聞いたことがあります。この頃には、漢字表記は一定化していたのでしょうか。

そうですね。漢字文化は、文書行政を基本とする律令体制の運用に伴って、奈良時代に飛躍的に浸透してゆきます。元号や地名の選定を通じて「良字」を選ぶ意識も高まってゆきますし、まさに、氏族の改賜姓にも良字が用いられるようになってゆきます。忌部氏が…

応天門の変は、伴善男が企んだものとして処罰されましたが、真犯人は本当に彼なのでしょうか。

確かに事件の結果、伝統的有力豪族の伴氏と紀氏が没落し、左大臣の源信は精神的な打撃により出仕しなくなり(後に落馬して死亡)、右大臣藤原良相も翌年には病死、太政大臣藤原良房の「ひとり勝ち」的な様相を呈しました。院政期に後白河法皇のサロンで作成…

犬養は、屯倉を守衛する犬を飼っていたそうですが、具体的にどのような種類の犬だったのでしょう。 / 犬や猫は、いつ頃から飼われていたのでしょうか。

最近報道もされましたが、イヌについては、縄文時代から狩猟等でのパートナーであったことが、考古学的な調査から明らかになっています。この頃の犬は体高45センチ前後、額段がないことが特徴で、南方起源ではないかと推定されています。弥生以降になると、…

皇極天皇と斉明天皇は、同じ人物なのになぜ名前が変わっているのですか。

実は、皆さんが高校までの日本史で覚えてきた天皇名=漢風諡号は、奈良時代の後半に一括して奏上されたもので、『日本書紀』編纂段階では和風諡号が付けられているのみでした。皇極=斉明天皇は「天豊財重日足姫天皇」で、同一の名称です。恐らくは一括奏上…

伝承板蓋宮跡で、飛鳥I期・II期など重層的な建築が明らかになっていますが、なぜ頻繁に建物を移したのでしょうか。

奈良時代までは遺制が残り続けますが、七世紀までの朝廷には一代一宮の慣習(歴代遷宮制)が存在し、大王が即位すると新しい宮で政治を運営することが繰り返されてきたのです。それは世界が一新されることを象徴していますが、歴史的には、王統・王家の定ま…

宮の名前がいろいろ出てきますが、これはどのように決められたのでしょう。

地名やその形状をもとにしたものがほとんどですね。伝承板蓋宮跡に重層する宮では、飛鳥岡の麓にあるので岡本宮、岡本宮を継いだ後岡本宮、屋根の特徴に因んだ板蓋宮(寺院の瓦屋根との差別化を図ったものかもしれません)などとなります。天武天皇の浄御原…

地名や役職を表す複姓に興味を持ちました。このような慣習はいつまで続いたのでしょう。例えば、藤原氏でこのようなことはあったのでしょうか?

奈良時代にはなくなってしまうようです。それぞれの氏族は家の単位に分断され、「○○家」「○○流」などと名告るようになり、やがて本来のウヂ名よりも家名、流派名の方で呼ばれるようになってゆきます。藤原氏が南家・北家・式家・京家に分かれ、北家本流が摂…

門号氏族のなかに「壬生」がありましたが、狂言や新選組にゆかりの地に京都の壬生があります。そこに勢力のあった氏族なのですか。

壬生=ミブを文字どおり意味を持つ漢字表記になおすと、「乳部」となります。これは、皇子や皇女の養育の財源確保のために置かれた部民ですね。京都の壬生にも乳部が置かれていた、あるいはそれに由来する氏族が存在したことは確かでしょうが、乳部自体は各…

皇子や皇女は、なぜ養育された氏族やその地名を名前に冠したのでしょうか。

アジアに広く存在する風習ですが、貴人の本名を口にすることは強く忌まれたため、大王や大兄は宮号で、皇子や皇女は養育氏族の名や地名で呼ばれたわけです。そのため、人によっては、本名の他にも複数の名を持つものも存在しました。中国では、ある人物の本…

蘇我馬子や蝦夷、入鹿の名前は、本当に『日本書紀』に掲載されているもので正確なのでしょうか。卑弥呼もそうですが、差別的な響きがあるように思います。本当の名前ではない可能性はあるのでしょうか、それとも漢字のイメージが後世に変わってきたのでしょうか?

いい質問です。7世紀の人物名については、『万葉集』や寺院縁起その他に確認できる場合も多いので、『日本書紀』が一から創作してしまっていることは少ないように思われます。ただしその漢字表記については、果たして当時一般的に使われていたものなのか、…

財政を管理する蘇我石川麻呂は、そんなにも好き勝手に守衛軍やお金を動かせるものだったのでしょうか。朝廷の監視の目が緩んでいたということでしょうか?

大化改新以前のヤマト王権は、律令国家のような官僚制ではなく、氏族制によって運営されていました。各職掌に秀でた氏族がその血縁・地縁集団を率い、国政を分担するという仕組みです。よって、現在の私たちが考えるような公/私の区別は、明確には存在しな…

蘇我石川麻呂の本拠とされる石川郡ですが、地図上ではずいぶん内陸にある印象を受けました。交通の便や交易の面では、海に面していた方がよいと思うのですが、なぜ内陸なのでしょうか。

そうですねえ。石川郡は、葛城金剛山系の西麓に当たり、この山を挟んで大和国葛城郡と接しています。北方には丹比道、南方には葛上斜行道路が通っていて、山を越えれば大和国、とくに蘇我氏の原郷ともいうべき葛城の地に接触できるのですね。講義でもお話し…

葛城氏と蘇我氏との関係がよく分かりませんでした。

葛城氏は、5世紀のヤマト王権に最も大きな勢力を持っていたと思われる豪族です。大王家と婚姻関係を結び、後に蘇我氏、藤原氏が行うような権力の独占を行っていました。本拠である葛城の地は、4〜5世紀に王権の外港であった紀ノ水門(紀ノ川河口)から紀…

当時の「氏族」とは、どのような共通意識を持った連合だったのでしょうか。今の親戚とはまったく違うのか?

必ずしも血縁で結びついているとは限らず、本拠が隣接しているという地縁的関係や、氏族制に基づく職掌から擬制的な共同体を形成していることが多かったようです。とくに興味深いのは後者、王権がその形成に関与している場合です。例えば、最大の渡来系氏族…

時代は異なりますが、以前勉強した平安頃の書物には、血などの穢れを宮中に持ち込んではいけないと出ていました。この時代には、それが可能だったのですか?

貴族社会でケガレ意識が急速に高まり、制度化してゆくのは、9〜10世紀のことです。それまでプリミティヴな汚穢への嫌悪感はありましたが、例えば血に対する神経質な忌避はありませんでした。6世紀はまだまだ動乱の時代で、王位継承も実力がものをいう面が…

蘇我氏の本宗家は、自分たちを狙ったクーデターのことをまったく察知していなかったのでしょうか。あるいは、そうした動きを制圧しようとする姿勢はなかったのでしょうか。

『日本書紀』によると、舒明朝から皇極朝にかけて蘇我氏は専権の度合いを強め、それを危惧した王権の一勢力によって誅滅されたという文脈で記されています。しかし、馬子から蝦夷への代替わりの過程で蘇我氏の結束が動揺し、また他の氏族との連携にも亀裂が…

実際に入鹿を殺した2人は、本当に入鹿を殺したかったのでしょうか。殺したことで、何が得られたのでしょう?

どうでしょう。氏族制下の出来事ですから、自分が直接奉仕していた蘇我石川麻呂、もしくは中大兄の命令に従ったということでしょうね。彼らがどのような国家観、政治観を持っていたのかはよく分かりませんが、門号氏族に位置づけられてゆく性格からして、王…

入鹿暗殺の情況を、なぜ偽ってまで書き残さねばならなかったのか。そんな事実は、闇に葬ってしまえばよかったのに。

後に述べてゆくことになると思いますが、「王権を浸食していた奸賊蘇我氏を排斥した」こと自体は、改新政府の正当性の根拠であり、むしろ喧伝しなければならなかったことなのです。これは奈良時代にも律令国家の神話となり、奈良王朝を正統付ける根拠のひと…

なぜこれまでの歴史研究は、誤った歴史を信じ込んできたのでしょうか。

いやそれは、「誤っている」とは思っていなかったからでしょう。現在私たちの語っている歴史も、いまは最も妥当性が高いものと信じているわけですが、後世には「誤っている」と排斥される可能性があります。あらゆる学問は、時代と社会との関わりのなかで進…

『日本書紀』に脚色があるのは分かりましたが、書かれた当時に批判はなかったのでしょうか?

まず、現在のように過去そのものの価値を認める近現代的歴史観と、古代の歴史観とを同質のものとみてはならない、ということが前提です。前近代のアジア的歴史観は、現在をいかに生きるべきか、またよりよい未来を獲得するにはどうすべきかを主眼に置くもの…

乙巳の変が服属儀礼の場で起きたのなら、高句麗をはじめとする史料を参照すれば、ことの真偽を知る一助になるのではないでしょうか。

残念なことに、朝鮮三国には、古代の歴史を記した文献が残っていないのです。通常、『日本書紀』と同時代の三国を考えるための史書は『三国史記』、『三国遺事』ですが、いずれも12〜13世紀に編纂されたもので、相応の史料批判を必要とします。ただし、近年…

『日本書紀』には対外的なアピールが多く盛り込まれていると、国文学科の授業でも教わりました。しかし、あの時代そこまでして日本の優位性をアピールする理由は、いったい何だったのでしょうか。

少し授業でもお話ししたように、当時は唐王朝の建国と高句麗征討、最終的には高句麗・百済が滅亡してしまうような情況で、国際的危機感に溢れた激動の時代でした。白村江の戦い後は、唐は倭を攻撃する計画さえ立てていたのです。ヤマト王権としては、亡命百…

これまでの「世界史」が「歴史基礎」「地理基礎」に変わったとき、「日本史」には制度的な変化が生じるのでしょうか。

提案には、日本史関係のことは書かれていないようです。日本史教育を基軸に据えて、そこから関連するトピックを通じ、世界史を把握してゆこうという「歴史基礎」なのでしょう。しかし、それで充分な世界史教育ができるのか、疑問の点もあります。あくまで「…

「思考型の歴史教育」への転換が必要とのことですが、授業の進め方など、先生には何か具体案がありますか。

大学の史学科の演習でやっているようなことを、もう少し簡易に、分かりやすく行ってゆけばよいだろうと思います。例えば、史料演習。そこから成り立っている定説ではなく、史料から何が読みとれるかを一人ひとりが考えて、グループ学習などで討論、意見交換…