日本史概説 I(08春)

信濃は都から離れているのに、古来から重視されている土地のように思います。何か特別な理由があるのでしょうか。

信濃の東隣である上野には、早くから大きな政治的力を蓄えた豪族集団が展開していました。前方後円墳を営みヤマトに服属していたとはいえ、その政治的・軍事的力は無視できなかったと思います。さらにその東方、北方には、エミシと呼ばれる未知の勢力が広が…

四神相応は、いつ頃日本に導入されたのでしょう。

最も早い例は、福岡県の竹原古墳(6世紀後半)の石室内に描かれた玄武・青龍・朱雀です。ただし、この古墳では四神思想が明確に理解できていなかったようで、玄武のデザインははっきりしませんし、青龍は馬のようにもみえます。これが7世紀末の奈良県キト…

四神の生き物はどこから来ているのですか?

残念ながら四神の起源については難解で、ぼくも定見は持っていません。文献的には、すでに戦国時代末期に成立した『周礼』春官宗伯/司常に、「交龍」「熊虎」「鳥隼」「亀蛇」が旗の文様としてみられます。方角に対応した四神は、道教の『淮南子』天文篇、…

四神相応についてですが、玄武が山、青龍が川というのは分かりますが、白虎が道、朱雀が池というのは少々厳しい気がします。なぜこういう割り当てになったのでしょう。

四神の形態によって分けるというより、都というものに必要な機能を割り振っているのでしょうね。山と川はともに自然の恵みを表し、とくに前者は防御、後者は水路の機能を発揮します。道は陸路交通、池は感慨農耕を象徴するものでしょう。ともに衣食住という…

複都制にはどのようなメリットがあるのでしょう。機関が別々の場所にあると不便であると思うのですが。

難波宮を外交・経済の拠点とすると、外交使節が来朝する難波津に近いこと、陸路と水路が交錯する交通の要衝であることが利点です。しかし、交通に開けているということは、そのぶん外敵にさらされやすいということも意味しています。倭が唐・新羅連合軍に敗…

複都制についてですが、アケメネス朝ペルシアにおいて、グレイオスI世はスサやペルセポリスに都を置き、分業していました。また、季節に応じて王の身を移していたといいます。となると、天武天皇も夏の猛暑から逃れるなどの理由で、複都制を敷いたとはいえないでしょうか?

天武天皇の時代は、古墳時代に続いた寒冷期がようやく終わろうとしている時期で、避暑という概念はそぐわないかも知れません。ただし、持統天皇は山水の清らかな吉野の地に鳴滝宮を築き、たびたび行幸しています。吉野にはリゾートとしての意味合いもあった…

歴史家は、史料に基づいてなるべく堅実に「正しい」と思われることを導き出してゆくと聞いていたのですが、諸先生の講義を聞いていると、史料から想像力を働かせて自分なりの説を導いているなと思いました。レポートなどの考察では、このように証拠のない想像に頼ったものを記述してもよいのでしょうか?

なかなか凄い質問が来ましたね。まずいえることは、先生方の発言には証拠がないわけではないと思います。学問としての歴史学と教科としての歴史、一般教養としての歴史の間には、その考え方にも方法にも大きな隔たりがありますので、1年生には突飛に聞こえ…

史実ではなかったという崇仏論争を、教科書が事実として書いているのはなぜですか。

教科書は、もはや定説として動かないであろう学説を分かりやすく記述するので、学界の水準からすると10〜20年遅れています。崇仏論争の件は、ぼくと数人の学者が見出した最新の学説なので、学界では反対意見は出ていないものの(近年、『書紀』に対する史料…

中臣鎌足の伝記の「カデン」とは、どんな漢字を書くのでしょう。

「家伝」です。詳しくは、歴史学研究入門の課題にあがっていた『歴史家の散歩道』を参照してください。

四天王について詳しく知りたいのですが。

四天王は、仏教に帰依した天部という神々で、須弥山にあって東西南北の四方を守護していました。東を守護する持国天、南を守護する増長天、西を守護する広目天、北を守護する多聞天からなります。最後の多聞天は、仏像の配置としては東北に置かれることから…

ドラマ『聖徳太子』で、物部守屋が弩で射殺されていました。当時から弩は存在したのでしょうか。

弩は弥生時代から存在したことが知られ、律令軍制にも規定されています。しかし、6〜7世紀の段階ではそれほど一般的な武器ではなかったでしょう。ドラマで弩を使っていた人物は新羅からの渡来人という設定で、その先進的技術と仏教の知識を通じて太子に奉…

当時の話し言葉は、現代の日本語と大差なかったのでしょうか。

発音からしても異なります。具体的な話し方には不明の点が多いのですが、奈良期以前の音韻はより朝鮮半島のそれに近く、現在の我々が発音できなくなってしまっている音も多く含まれていたと考えられています。

奈良時代以前、天皇には顔を隠す習慣がなかったのでしょうか。

天皇が御簾の向こう側に隠れるようになるのは、政治的実権を摂関に移譲し神聖不可侵の地位となってゆく平安以降とみられています。

ドラマ『聖徳太子』で、古代人のしていたメイクが興味深かったです。赤や白の顔料はどのようなものなのでしょう。 / 赤には魔除けの意味があるとのことですが、名前はあるのでしょうか。また、赤以外にも特別な意味を持つ色はありますか。

例えば赤色は、酸化鉄系のベンガラ(いわゆる朱。弁柄。インドのベンガル地方の原産なのでこう呼称されるという)、硫化水銀系の辰砂(いわゆる丹。中国の辰州原産)に二分されます。いずれも、石器時代より破邪の顔料として用いられ、墳墓などには濃厚な施…

ドラマ『大化改新』の衣装は、冠位十二階に基づいて作られているのでしょうか。また、何を資料として復原されているのでしょう。 / 紫が最高位の色ならば、入鹿ではなく天皇が身に付けているべきではないでしょうか。

ドラマの衣装復原は、冠位十二階の制度を基本に、高松塚古墳の壁画、藤ノ木古墳出土の装飾具などから創造的に復原されています。入鹿の紫衣・紫冠は大臣の身に付ける衣装で、冠位十二階のに含まれない特別な礼冠・衣服です〔若月義小『冠位制の成立と官人組…

ドラマをみていて気になったのですが、古代の建物にはどの程度屋根が付いていたのでしょう。

基本的に、板葺き、檜皮葺、茅葺きの屋根は存在しました。ドラマで描かれていた露天の広場=朝庭は祭祀・儀礼の場で、そうした空間は神が降りてきやすいように、また天のもとに明らかなように屋外に設定されるのが普通なのです。

史料に挙がっている『延喜式』の章題にある、「四時祭」「祈年祭祝詞」「大忌祭」「神名帳」「大和」がよく分かりません。山口神社の表の見方もよく分かりません。

「四時祭」は春夏秋冬それぞれに行う年中行事としての祭祀の総称。「祈年祭」は、毎年2月に行われる最重要の律令祭祀で、天皇が公認の神社へ幣帛を頒布する一種の農耕予祝祭儀。「祝詞」はその祝詞。「大忌祭」は、毎年4・7月、朝廷が大和国の広瀬社・山…

格と式の違いがよく分かりません。

講義でも触れましたし、日本史・世界史とも一応は高校で習っているはずですが(世界史では中国史に出て来ます)、もう一度説明しておきましょう。格は律令の補足・修正法で、時代情況に合わせ、令の規定の足りないところを補ったり、令意を変更したりする法…

地名や職掌と人名が一致しているのは、何か関係があるのでしょうか。

氏族が本宗から分岐してゆくときには、移り住んだ場所や新たに担うことになった職名をウジ名に冠するのが普通で、これを複姓といいます。例えば蘇我倉山田石川麻呂んの名前には、職名を表すクラ、本拠の地名を表すイシカワが盛り込まれています。

有間皇子は蘇我赤兄に簡単に唆されていますが、謀反の起こし方が軽率ではないでしょうか。

実際はもっと複雑な事情があったのでしょう。また蘇我氏については、本宗が中大兄・中臣鎌足によって滅ぼされているわけですし、味方した石川麻呂も無実の罪で自殺させられているわけですから、当時の宮廷社会にあって、必ずしも「親中大兄」一色でみられて…

最終的に、なぜ斉明の子供たちが手がけた『日本書紀』に、あれほど色濃い批判が書かれているのでしょうか。

完全に、編纂時の天武皇統に有利な記述しか書かれてないわけではない、その点に『書紀』の史書としての客観性があるのでしょうね。中国王朝の正史を編纂してきた史官たちには、代々「王権より以前に天に奉仕している」との意識が強く、所属する国家や帰属す…

天皇の開発に対する反発はどのような形で天皇に伝わったのでしょうか。 / 斉明天皇が中国の様式を取り入れて王権を強化したかったのは分かりますが、こんなに批判を受けたらさすがに諦めるのではないかと思うのですが。

飛鳥という空間では、王と民の間はそれほど隔絶していなかったと考えられます。もちろん、民が直接王に苦情を訴えることはなかったでしょうが、その不満や怨嗟が、豪族たちを介して王に伝わることは充分にあったでしょう。古代の史料には、時折「時の人の云…

高校の教科書で、「藤原京は石上山の木材を大和三山に囲まれた所に運搬し、造営された」と習ったのですが、本当ですか?

恐らく、「石上山」ではなく「田上山」の記憶違いでしょう。後日講義でもお話ししますが、田上山は滋賀県の南部にある山で、古代から連綿と林業が盛んに行われた場所です。藤原京造営時にここから木材が伐り出されたことは、『万葉集』の「藤原宮の役民の作…

石の山丘を作るために使われた天理砂岩は、当時としては高級な石材だったのでしょうか。

古墳時代からよく使用されている飛鳥の石材として、石上山の石と二上山の石が挙げられます。高級というより、まずは加工しやすかったこと、そして宗教的な意味を持っていたことが指摘できます。二上山は飛鳥からみて太陽が沈む真西の方角にあり、冥界のある…

レポートテーマの発表もしましたので、とりあえず、まだ単元の終わらない飛鳥・藤原の、現時点での参考文献を掲載しておきます。

相原嘉之 2004 「酒船石遺跡の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』18今泉隆雄 1986 「蝦夷の朝貢と饗給」高橋富雄編『東北古代史の研究』吉川弘文館 1993(1992)「飛鳥の須弥山と斎槻」同『古代宮都の研究』吉川弘文館小澤毅 2003(1988)「伝承板蓋宮…

桃はなぜ神聖な果実とされたのでしょう。

単純ですが難しい質問です。ありきたりの推論ですが、ひとつには性的象徴(女性の臀部などとの形状類似)からの連想が考えられます。性は生命の根源として、前近代社会・民族社会においては信仰の核をなします。桃に破邪の機能が期待され、不老長寿の仙薬と…

日本の卜占は誰がどのように行っていたのですか。殷王朝では王自身が実践していたと思うのですが...。

殷王朝では、最高の卜官は確かに王ですが、卜府ともいうべき専門の機関が存在し、亀甲や牛骨の調達・管理・整形、卜占の実践・記録等を一括して行っていました。そこに所属する貞人=卜官こそが、歴史を掌る史官の前身でもあります。周代以降は、卜占は専門…

古代の人々は、なぜ呪いやまじないの類を信じたのでしょうか。

宗教や呪術は、前近代において科学と同じ役割を果たしていました。現在私たちは、世界や宇宙を認識する知の体系として自然科学に依拠していますが、世界がどうなっているのか、宇宙がどのように成り立ち存在しているのかを教えてくれるのは、前近代において…

日本的中華思想によって生み出された〈異民族〉は、蝦夷と隼人だけですか。熊襲は違うのでしょうか。 / 差別化されているはずの隼人に、なぜ四神を連想させる名前が付いているのでしょう。

熊襲や南島の人々も服属民として扱われますが、蝦夷や隼人のような特別な位置づけは与えられていません。実質的に夷狄を持たない日本では、この2グループが象徴的に扱われたのでしょう。例えば、出雲国造がヤマト王権への服属を誓う「出雲国造神賀詞奏上」…

中大兄の築いた漏刻台の時間の概念は、観勒の暦法に基づいていたのでしょうか。

恐らく元嘉暦に依拠したものであったと考えられます。石神遺跡からは、持統天皇3年(689)の具注暦木簡が発見されていますが、これは元嘉暦に基づいています。同6年(692)からは新しい儀鳳暦との併用が始まり、文武朝には切り換えられるので、斉明朝は元…