日本史概説 I(08春)
少なくとも平安時代までは、陰陽寮のもとで管理されていたようです。養老令によれば、同寮には漏剋博士2人と守辰丁20人が置かれ、漏刻を操作し、決められた時間に鐘鼓を鳴らして周知を行っていました。地方では、日時計や時香盤(香の燃え尽きる長さで時間…
最も古い方法は太陽や月によって暦や時刻を分節する方法ですね。日時計もそうです。これら天体からは、方位も知ることができます。日本古代には、皇室の祖先神となるアマテラスの他に、尾張氏という海洋系の氏族によって奉仕されていた天照御魂神など、多様…
別にポータブルということではなく、いろいろな場所に設営できるということで、組み立て式なのです。以前に配布したレジュメにも、『書紀』における須弥山石の史料を網羅しておきましたが、幾つか場所を移して設営されています。飛鳥寺の川原は貴族の子弟が…
古代国家に仏教が導入されたのは、仏教があらゆる知識・技術の最新の水準を示す複合文化であったからです。その思想を理解するためには高度な漢文の知識、哲学的思考が必要でしたし、経典を書写する施設・設備が不可欠でした。読経を核とする仏教儀礼を行う…
それまでの大王の機能には、公/私という区別が存在していなかった可能性があります。大王宮は大王の居所であって、家産機構の中枢でもあった。極めて私的な空間で、その場に出入りして奉仕する存在は、大王家の配下以外にありえなかったでしょう。それに対…
そうなのですが、直接的には違います。紫微中台の前身は皇后宮職で、光明皇后に付属してその活動を輔佐する令外官でした。天平勝宝元年(749)、娘の阿倍内親王が聖武天皇の譲位を受けて即位すると、光明は甥の藤原仲麻呂と謀って天皇の大権を代行することに…
飛鳥までの歴代遷宮は、基本的に、有力な王位継承者が営む王子宮が、即位に伴いそのまま大王宮に発展した結果だと考えられています。しかし舒明天皇の百済大宮以降は、大王が自己の権威を喧伝する中央集権的施策のひとつとして、宮の造営が行われることが多…
これは藤原京のところでお話しする予定ですが、天武・持統朝に大王を即神(生きたままの神)化し天皇と位置付けるさまざまな施策がとられたと考えられます。上記のような、神統譜を伴う神話の形成もその一環です。しかしながら、自然を完全に上回る地位を目…
例えば、天神/地祇という言葉によって高天原に由来する神と地上(葦原中津国)の神とが区分されるように、王権は神々のうちにヒエラルヒー(上下関係)を作り出していました。そのうちタカミムスヒやアマテラスといった皇祖神がトップに君臨し、その子孫と…
まさに6/9にお話しする中心のテーマです。しばらくお待ちください。
三跪九叩頭は清代の儀礼ですね。清朝は満州族の王朝ですが、漢民族以外の周辺諸族では、王への服属の礼として(近代的視点でみると)かなり屈辱的な作法が残っていることが多いようです。日本の跪伏礼・匍匐礼も同じで、これは、王という存在が人間以上の存…
まず、天皇の居所が私的な空間と公的な空間に分けられたり、政務や儀礼を行うような空間が構築されてくることは、中国の形式を導入しつつ古代日本の政治文化が変質してきていることを意味します。ヤマト政権の盟主に過ぎなかった大王の立場が次第に他の豪族…
火災なども挟んでいますので、ケース・バイ・ケースですね。例えば岡本宮から板蓋宮への移行の場合、岡本宮は焼亡しているうえに自然地形に沿った方位で建てられていたので、南北方位の板蓋宮には建物の継承はありません。板蓋宮も火災に遭っているので、大…
難しい問題です。実際、建築物の痕跡以外に参照しうる資料がない古墳時代以前の遺跡などは、その役割や機能を考えるのが極めて困難で、曖昧な部分も大きくなってしまいます。掘立柱の穴があったとすれば、どれくらいの長さの柱が立っていたかくらいは想定で…
日本の神話に関する研究は厖大で、みなそれぞれに読むべき価値を持っています。オーソドックスなところでは、他の地域の神話などとの比較、縄文や弥生といった考古学的成果との関連で考えるなら、大林太良や吉田敦彦といった人の本が面白いでしょう。ほかに…
平城京という新しい都へ移ってきた時点で、舒明天皇の「百済大寺」、天武天皇の「大官大寺」という位置づけが弱くなり、平城京を運営する新たな王の寺を「大寺」と呼ぶことが原則になったのでしょう。平城京では、「東大寺」「西大寺」のみが「大寺」と呼ば…
まずは個人の歌を収めた書物であるからで、いくら大王や王子の作ったものであっても、王権という政治システムから発せられる思想とは、必然的に異なってくるのだと思います。当たり前のことですが、古代人も、個人的には自然を愛好する性向を持っていたので…
時代によって波がありますが、日本列島から樹木信仰がなくなるということはありません。しかし並行して木を伐る必要はあった。むしろ日本列島に暮らしてきた人々は、木を伐ることなしには生活を営めなかった、それゆえに(自己の行為を正当化するため)伐採…
この時期、寺院どうしの軋轢はあまり見受けられませんが、逆に『書紀』の表面からみえる政治的対立とは違った氏族的交流が、寺院の造営から垣間見えることがあります。金堂に葺かれた軒丸瓦の瓦当紋様からすると、当時の造寺技術は、蘇我氏系・上宮王家系(…
新訂増補国史大系の『朝野群載』という書物に全文が収められています。しかし、宣命体で書かれていますから、史学科の訓練を積んだ人でないとなかなか読めないかも知れません。ちなみに、その原型となった「大祓祝詞」は『延喜式』という書物に収められてい…
注連縄の本質的な機能は、結界を張って内/外を断絶させることです。現在、神木と崇められる樹木の周囲に張ってあるのも、それから先が神域であることを示し、安易な立ち入りを防ぐためです。しかし、史料的な初見である『古事記』や『日本書紀』の天石屋神…
この伝承の成立については、拙稿「伐採抵抗伝承・伐採儀礼・神殺し」(『環境と心性の文化史』下、勉誠出版、2003年)で詳述しましたが、もとは河辺臣の氏族伝承であったと思われます。同氏は外交使節や外国への派遣将軍を輩出した家柄ですが、それだけに、…
言説の形式としては、中国六朝以降の志怪小説等によく出てくるものです。英雄や王が、災禍をなす神や怪物を退治して、自然を切り拓いてゆく。社会なり共同体なりが肥大化し、それを支える資源が今まで以上に必要になると、それを実現しうる規模の開発が志向…
もちろん、それでは困ります。これまで長々とお話ししてきた「環境史の視座」を思い出してくれれば、歴史学的知識の活用のあり方を分かってもらえるはずです。しかし実は、「事実をありのままに捉える」ということ自体が、本当はいちばん困難なんですよね。…
大山誠一さんの学説ですね。厩戸王という王子がいたことは確かですが、『日本書紀』に記されている「聖徳太子」としての彼の事績には粉飾が目立つということです。ちなみに手前味噌ですが、最近の大山さんの論考には「崇仏論争は『書紀』の構築したフィクシ…
そうです。服装や髪型などの身分標識も礼の重要な要素です。次回お話ししますが、推古朝は中国の礼制が本格的に輸入・実践された時代で、宮廷での立ち居振る舞い方、具体的な儀礼の進め方などが決められます。冠位十二階の制定もその一環なんですね。
都城は中国で創始された都市の制度、宮都は日本固有の王宮・王城の呼び方です。「宮」が「御屋」すなわち貴人の住む建物を表し、「都」が「宮処」すなわち宮を含む周辺の空間を表します。どちらが正しいということではなく、「宮都」とは王の住む建物とその…
弥生時代は戦争の時代といってもよく、中国の史書にも倭国大乱のことが記されています。考古学的にも、焼かれた家々や鏃の刺さった人骨など、戦争の痕跡が検出・確認されています。各地の中小の共同体が農耕の収穫などをめぐって対立し、弱小なグループはよ…
宮廷を視覚的に荘厳する発想は中国からもたらされたものでしょう。しかし、それを実現するための土木技術が、それまでの日本にまったくなかったわけではありません。例えば古墳前期より存在する首長墓〈前方後円墳〉は、高度な土木技術により計画的に築造さ…
実際に、墨家は儒家を様々な局面で批判しています。例えば葬儀のありようについて。儒家は、礼的秩序を維持するために、王侯や士大夫ら統治階層の葬儀を盛大に行い、大量の副葬品を地中に埋納することを勧めます。しかし、墨家の考え方では人類の生産できる…