日本史概説 I(09春)

外国人が国内の政治に参加するのは難しいと思うのですが、渡来系の人々はどのように台頭したのでしょう。

とにかく、中国や朝鮮半島の先進文化に基づく知識・技術、それが王権に重宝されました。なかでも、律令や国史の編纂事業に関わった人々は功績を認められ出世します。しかし、五位以上に到達するのは希で、実務官僚としては重視されても国政に参与することは…

僧を還俗させて政治に参加させることについて、当の僧侶の側には反発はなかったのでしょうか。

奈良時代は、僧侶になるためには国家に公認・証明してもらわなくてはならず、試験に合格して得度が認められたものは、国家鎮護の呪術を担う官僚の一種となります。僧侶には僧侶のすべき仕事があるわけです。還俗という措置は、彼が僧侶としてよりも別の特殊…

なぜ『藤氏家伝』には、房前や宇合、麻呂の伝はなく、武智麻呂だけなのでしょうか。

以前にも少し触れましたが、編纂者の藤原仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝」の名前を賜り、藤原氏から独立して恵美家を興しました。それは、ちょうど不比等が鎌足の「藤原」姓を独占的に継承し、中臣氏から独立したことと相似形の方策です。つまり『家伝』は…

古い時代には、なぜ不比等の名前が「史」と書かれ、なぜまた「不比等」へ変更になったのでしょう。

田辺史に由来する命名だとすれば、やはり元来は「史」と書いたものでしょう。しかし、奈良時代を経過して藤原氏の力が伸張し、鎌足や不比等に対する崇拝が強くなってきた結果、「他に並ぶ者のない偉大な人物」の意味で、「不比等」の表記を使うようになった…

中臣氏全体が藤原姓を名乗った経緯を教えてください。

そのあたりのことを明確に語る記述はないのですが、中臣鎌足が臨終に際して藤原姓を賜った後、中臣大嶋や意美麻呂も藤原姓を名乗っているので、一時期は宗族全体が藤原姓を許されたものと考えられるのです。しかし、『続日本紀』文武2年(698)8月丙午条に…

草壁の早世について、大津の祟りによるものとの噂はなかったのでしょうか。

史料としてはまったく出てきません。大津皇子は、ほどなく二上山に改葬されますが、同山が常に藤原宮からみえることから、「鸕野皇后や草壁皇子にとって、大津皇子の怨霊というものがいまだ意識されず、恐怖の対象にならなかったことを示す」とする見解もあ…

天武の遺業を実現させて律令国家を建設した持統の手腕に驚きます。しかし、草壁から文武への皇位継承を強行させるあたり、女帝の独断的振る舞いに家臣が反発したりすることはなかったのでしょうか。

独断的にみえても、持統の行動は、朝廷を構成する豪族たちの意志をしっかり反映し、代弁していたのだと考えられます。天武や高市が草壁即位を承認し、葛野王が文武即位に協力したように、内乱を回避するためにも、父子嫡流相承が妥当とみなされたのかも知れ…

大津皇子を唆したとされる行心について、『懐風藻』と『日本書紀』で扱い方に差異があるのはどうしてでしょう?

『懐風藻』が、私的な観点から叙述した文献だからでしょう。ちなみに、当時の有力貴族たちは卜占に長けた僧侶を近くに置いていたようで、『藤氏家伝』によると、鎌足にも道賢という行心と同じような存在が付いています。改心政府の顧問となった僧旻も、天文…

当時の処刑法は斬首だったのでしょうか?

大津皇子の処刑法については史料がないのですが、養老律では謀叛は斬刑です。しかし、飛鳥浄御原令には律は付属していませんので、実際はどのような刑罰が採られたか分かりません。ちなみに、壬申の乱の折には自殺した大友皇子の家臣のうち、トップの者はや…

大津皇子に才能や人望があったとすると、天武が彼を後継者に選ばなかったのはなぜだろうか。

やはり後継者は天武単独の意志では決められず、皇后(正妃)の意向が反映したということでしょう。実は、天武のもともとの正妃は、鸕野讃良ではなく姉の大田であったと考えられています。大田が存命であれば大津が皇太子に立てられたのでしょうが、残念なが…

大津皇子はクーデターについてどのような計画を立てていたのか。また、皇子の処刑に対し臣下が異議申し立てをしなかったのはなぜか。

私見ですが、大津皇子が武力によるクーデターを企てていたことはなかったと思います。もしそうだとすれば、連座者はもっと多かったでしょうし、また2人のみを流刑に処す程度では済まなかったでしょう。大津自身に即位の野心があり、それを是とする群臣たち…

皇位継承とは、そもそも誰がどのように決めていたのですか。

当時は、継承者は天皇や皇后の一存で決められるわけではなく、王族や群臣の同意が必要でした。支配層の利害が一致しなければ、即位の実現は難しかったのです。それゆえに、7〜8世紀にかけては、しばしば有力な候補者とその支持者たる大豪族の間で、しばし…

樹木へのシンパシーが中国にはないとの話でしたが、日本ではいつごろ現れるのですか。

中国にまったくないというわけではありません。広い中国全土では地域的な差違もありますし、日本と同じようなアニミズムを伝えている人々も存在します。ただし歴代王朝が鎬を削った中原地帯では、厳しい環境のなかで文明を築きあげてきただけに、自然に対す…

日本文化は樹木の利用のうえに成り立っていると思うのですが、木を伐ったり素材として用いたりする大工や彫刻師などは、自分の行為が地獄で跳ね返ってくることを自覚していたのでしょうか?

仏教を信仰していれば、それに近い意識は持っていたかも知れません。日本では、古代から現代に至るまで、山の神や木霊に働きかけて「木を伐らせてもらう」祭儀が連綿と実践されています(もちろん、それは時代を経るにつれて希薄化していますが…)。それらは…

「等活地獄幅」に子供の姿が描かれていましたが、彼らも罪を犯したのでしょうか?

「等活地獄」は、責め呵んで骨と肉片だけになった亡者へ「活きよ活きよ」と呼びかけると、子供の姿になって再生するところから名づけられています。復活した亡者はすぐに大人へと成長し、同じ苦しみを受けてまた骨・肉片と化す。このサイクルがずっと繰り返…

地獄の絵図をみていて思ったのですが、地獄と鬼の概念は同時に生まれたのでしょうか。以前、鬼は鍛冶から生まれたとの話を聞いたことがあるのですが。

地獄の獄卒は、正確にはもともと鬼ではありません。中国の「鬼」という漢字は、もともと屍体そのものを指す象形文字で、転じて死霊もしくは祖先霊を指すようになりました。ヤマト言葉のオニの語源には様々な説がありますが、陰や隠の音=意味に由来するとい…

六道絵の「人道不浄相幅」で、遺棄葬には犬や鳥の働きが重要とのことでしたが、当時の犬はペットとしてより屍体処理の役割が大きかったのでしょうか?

屍体処理に活躍するのは、現在でいう野良犬ですね。犬は縄文時代から人間とパートナーシップを結んでいたようですが、平安貴族社会においては、ペットとして愛玩される存在ではなかったようです。以前講義でも話をしましたが、例えば犬を飼って屯倉や宮城の…

仏教の地獄の概念は、元来どのように成立したものでしょうか?

インドの時点で、すでに罪人の堕ちる地下の牢獄(ナラカ=奈落)、その支配者たる閻羅(閻魔)も存在していました。それが西域を経過して中国へ入ってくると、中国固有の冥界と習合することになります。中国では、五岳のうち泰山の内部に冥界があるものと考…

自己呪詛はどのような思考、精神で行われていたのですか?

法律的観念が共同体の成員を束縛するほどに発展していない社会においては、その代わりを神的存在が果たしていたわけです。神が誓約の保証者となることで、その約束事の拘束力が増す。現在でも、例えばアメリカ合衆国では、議会での発言の際に聖書に手を置き…

亀卜・骨卜の起源を聞いて、ギリシア・ローマ神話に出てくる供犠を思い出した。距離的にはかなり離れているが、こういった発想は伝播などではなく、人類共通の原意識だったのだろうか。

供犠は人類共通の宗教文化であるとともに、それぞれの地域・民族の歴史を反映するものでもあります。かつては普遍的な視野からの研究が盛んでしたが、最近ではその固有性を問うような方向性が示され始めています。確かに、隔絶した地域での類似は驚きを呼び…

仏教思想には、「一切衆生悉有仏性」など生命平等主義的な考えがあるはずだが、なぜ六道のなかの畜生道は人間道よりも下に位置するのだろうか。

別の講義でも話したのですが、確かに仏教には「生命圏平等主義」的な考え方があるのですが、そこには様々な留保も付けられているのです。例えば「一切衆生悉有仏性」という文言の典拠である『大般涅槃経』ですが、この経典の別の箇所では、石や瓦礫などの「…

伝統と革新のバランスが崩れると、どのような影響があったのだろうか。/ 神格化された天皇の意図が果たされなかった場合、どのように言い訳されたのだろう。

非常に抽象的ないい方になりますが、改革の進め方が急激でありすぎ、旧来のものの考え方やそれを重視する勢力、旧体制から利益を得ている勢力をないがしろにしすぎると、反対派を強固にし、ときには反乱を招くこともあるでしょう。孝徳〜持統朝の間に謀叛事…

祈年祭は神と天皇との矛盾のなかで衰えていったとのことですが、農耕予祝儀礼そのものがなくなってしまったのでしょうか。

そういうわけではありません。農耕の豊穣を祈る祭儀、あるいはそれに感謝する祭儀は、年中行事のなかで最も基本的なものです。民間では古来より現在に至るまでずっと続いていますし、国家的にも形を変えて存続してゆきます。国家祭祀の形態は、祈年祭にみる…

三種の神器はいつごろ確立したのでしょう。中国にはそれに相当するものはあったのですか。

実は、確立していたのかどうか定かではないものなんですね。まず、剣・鏡・玉の3点セットは、5世紀後半頃、神祭りの道具として列島各地へ画一化されてゆきます。恐らく、大王が天皇として神格化される際に、神祭りの祭具も即位儀式のなかへ取り込まれたの…

私の実家は条里の真ん中にあります。通っていた高校は陣屋跡に建っているのですが、江戸時代の変則的な町並みなども条里制のような整地に基づいていたのでしょうか。

大規模な整地と舗装は古代的開発の特徴なのですが、江戸時代の町や村も、都市の圏内であれば整地を伴った可能性がありますね。ようは町並みが変則的な否かではなく、家々を立てるための平坦地の確保がどのように行われているか、治水や灌漑などの仕組みがど…

仏教が伝来していた当時も、宮廷では天皇を神と信仰していたのでしょうか。神仏の関係がどうなっていたのか気になります。

そうです。ですから、聖武天皇以前は、天皇が仏教と神祇祭祀をバランスよく交流させながら天下を統治する、という形式を採ります。仏も基本的には、数多ある神々のひとつと認識されるわけです(この点、実は細かいところで異論があるのですが、今は措きます…

持統天皇は何度も吉野へ行幸して自然のエネルギーを得ていたとのことですが、それが公に分かれば権威が失われると思うのですが?

そうした完全なヒエラルキー構造としては、天皇と自然との関係をみていなかったと思います。天皇は、確かに自然神の上に立つものとして位置付けられてゆきますが、その内実には自然を祭祀するシャーマンとしての本質をずっと持ち続けてゆきます。講義でお話…

鵜飼いの漁法は、正直あまり快いものではない。一度動物の口に入ったものを、天皇の食事に出してもいいものだろうか。鵜飼いにはよほどの霊性があるのだろうか。

7世紀段階では未だそのような感性は表れていないでしょうが、平安〜中世にかけて仏教の不殺生戒が広がってくると、鵜漁によって得た魚は「殺生によって得たものではない」として重宝がられます。結局、鵜匠が宮内庁の所属になってゆくのは、そういう供御に…

古代の村人には、和歌を詠えるだけの教養があったのですか?

「藤原宮の役民の作る歌」は宮廷歌人の仮託であると考えられていますが、奈良時代になると、例えば東国の農民のなかにも和歌を詠えるものが確実に出てきます。そのことは、『万葉集』に収録されている東歌、防人歌から明確に分かります。当時、兵部省からの…

和歌にみられる天皇の神聖の表現の変化は、先生独自の見解なのでしょうか?

藤原宮・京建設と天皇即神表現の成立を結びつけるのは私の説ですが、人麻呂の試行錯誤については、神野志隆光さんや遠山一郎さんの研究をもとにしています。参考文献リストに掲げた、お2人の著作を確認してみてください。