日本史概説 I(10春)

地獄には十王裁判があるとのことですが、現在では閻魔が一人で裁いている印象が強いと思います。いつから閻魔が突出して認識されるようになったのでしょう。 / 十王図のうち、閻魔以外の図が日本で描かれたことはあったのでしょうか。

下記に述べるように、十王のうち最も歴史が古いのが閻魔王でしたので、この神格は早くから重視され、単独で描かれることも多い存在でした。中国的官僚化の進んだ十王裁判は、閻魔王単独の信仰が変化したもの、もしくは単独の信仰へ変化したというわけではな…

郷飲酒礼について、礼的秩序を教授する長老たちは、どこでそれを学んだのでしょうか。

長老たちが教授するというより、その場で「長を尊び老を養ふ道」を教え示す、という方が正確かも知れません。『令集解』儀制令春時祭田条には、例えば、年齢によって座る位置を変え、その子弟に配膳係を務めさせるという解釈が提示されています。しかし、問…

現在も宮内庁楽部に籍を置く多氏や東儀氏は、なぜ有名な「太」や「秦」の名字を名乗らなくなったのですか。

太朝臣については、『日本書紀』の段階で「多」とも表記していました(他にも「意富」「於保」などがあります)ので、別段「太」が正式というわけではありませんでした。東儀は秦河勝の子孫を自称していますが、これは中世に河勝を芸能の祖とする伝承が生ま…

浄御原令のなかにも、体系化されていないだけで、礼や楽に関する規定はあったのでしょうか。

浄御原令については成文化された内容を見出すことが難しいので、ほとんどの場合、『日本書紀』の記述を大宝令や養老令の条文と比較してあらましを想定しています。天武朝に楽府のような施設がまがりなりにも整えられ、楽人の貢進や養成が行われていたとすれ…

阿倍皇太子を正当化するために聖徳太子信仰を利用する、というあり方がよく理解できませんでした。 / 当時、聖徳太子に対する信仰はそれほど盛んだったのでしょうか。 / 太子の命日は2月22日で正しいのですか。

聖徳太子に対する信仰は、その関係寺院を通じて7世紀の後半には喧伝され始め、『日本書紀』の編纂・講読によって画期を迎えたと考えられます。仏教国家の後継者としての阿倍皇太子、それを支援する聖武や光明は、仏教を奉じる皇太子の先例として聖徳太子を…

史料20をみると、布施している品物のほとんどが繊維類です。当時、繊維にはどのような意味があったのでしょう。

古代には、民から王への税も、租以外は繊維製品で徴収されていましたし、逆に王からの下賜物にも繊維製品がおおくみられました。神に捧げられる幣帛も繊維製品です。麻や絁はともかく、絹織物は高価で貴重な品でしたので、これらを贈答に用いることが多かっ…

高校のときに読んだ歴史書に、「藤原不比等は日本の文化的水準を中国に近づけるべく元号を用いた」と書かれていました。この指摘は正しいのでしょうか。

元号とは、その王なり王朝なりが、空間だけではなく時間をも支配していることを示す仕組みです。ゆえに、同一天下のなかでは唯一、もしくは優勢な王朝しか元号を使用することはできませんでした。日本の場合は本来なら中国王朝の元号を使用していてもよさそ…

仏教の経典には何種類かあるようですが、何がそれぞれ違うのでしょうか。福音書にも何種類かあるのと同じようなものでしょうか。

これは、当たり前のように説明していて失礼しました。仏教の経典の数は、福音書の比ではありません。仏教が誕生し、釈迦の教えを書物として編纂するようになってから、厖大な数の経典や注釈、それらに基づく論著が生み出されてきました。中国では仏典の漢訳…

日本は道教崇拝の国家とよくいわれていますが、「道教」は日本特有のものですか。中国の「道教」と繋がりはありますか。

「よくいわれている」とは、どこでいわれているのでしょうか。確かに、神仙思想や陰陽五行説の影響は色濃くありましたが、少なくとも学術的なレベルでは、日本は道教崇拝の国ではありません。最近、駒澤大学の石井公成さんなども指摘されていますが、かつて…

中国の律令制と日本の律令制の大きな相違はどこにあるのでしょう。

日本の律令制は中国のそれを継承したものですので、基本的な相違はありません。しかし、篇目や条文のいちいちを詳しくみてゆくと、日本の実状に合わせて局所的に改変が加えられているのは確かです。例えば、神々を扱うような条文はその相違がはっきりします…

レポート関連の質問をまとめておきます。

Q)「関心を持ったトピック」とは、講義内で少しでも触れたことがあればよいのでしょうか。また、時代は同じ時期でなければだめでしょうか。 / おまけから複数の題材を扱って書いても構いませんか。A)もちろん、授業で触れていれば何を扱っても構いませ…

唐は安史の乱などによって衰退してゆきますが、中国を模倣していた日本が独自の路線へ切り替えることになった一番の契機は何でしょうか。

やはり菅原道真による遣唐使の派遣停止が大きいのでしょうが、注意しなければならないのは、その後も中国文化の摂取と消化は続けられていたということです。例えば国風文化は、「遣唐使停止によって醸成された列島独自の文化の萌芽である」との位置づけが一…

中国の「字」の制度は日本に根付かなかったのでしょうか。また、カバネの語源は何ですか。 / 「姓」から名字に移行するのはいつ頃でしょう。

当時は土葬や火葬はどの程度行われていたのですか。

礼に即した中国的葬法が伝わることによって、奈良時代初期には、貴族たちの間で仮葬の風習が広まり始めました(なお渡来人の間では、もっと早く古墳時代末期から、例えば須恵器窯において人間を火葬することが行われていたようです)。中国風の墓誌を伴った…

中国では、美女に心を奪われ政治を顧みなくなった皇帝を改心させるため、美女を殺してその腐乱過程を絵に描き、皇帝へ送ったとの話があります。日本ではそのような使い方はしなかったのでしょうか。

そういう話は残っていませんが、ご指摘の内容も僧侶の使用の仕方としては理に叶っています。中国の著名な僧侶の伝記集である『高僧伝』には、「女性を死体として認識する」死想観を実行し、美女や美女に化けた鬼神の誘惑から逃れたという話も出て来ます。い…

人道不浄相の例え話について。光明皇后がそのように話に出てくるということは、彼女の仏教信仰は後世の人々に知られていたということですか?

そうですね、光明皇后の仏教信仰は中世以降も説話化して流布していました。最も有名なのは東大寺二月堂の湯屋に関するもので、光明皇后が貧窮者・病者へ施湯を行った際、自分が罹患するのも厭わずに口吸いで血膿を除いたハンセン氏病患者が、実は薬師如来で…

斎王がアマテラスに仕えるということは、当時の天皇家に何かメリットをもたらしていたのでしょうか。 / 井上内親王は結婚しているようですが、斎王は結婚できたのですか。

『日本書紀』に記された宮廷の内的理解では、アマテラスはもともと大王の宮殿内に祀られていたものの、その力の強さから大王の身心を疲弊させたため、祭祀場所を探して最終的に伊勢の地へ辿り着いたということになっています。斎王は、本来ならば天皇が実践…

五節舞が礼楽思想に基づくとすれば、民はその舞をみることができたのでしょうか。 / 現代の私たちが、このような宮中の儀礼をみることはできるのでしょうか。

阿倍の五節舞は、あくまで支配層の皇位継承に関する合意を得るためのものですので、内裏で公卿を招いて行われた宴において演じられ、一般民衆はみることができませんでした。現在の宮廷行事では、大嘗祭において5人で舞う形が伝えられていますが、やはりほ…

阿倍皇太子は、五節舞を舞ったとき何歳だったのでしょう。

26歳でした。もうけっこう立派な年齢です。

女性皇太子を肯定する情況を作り出すため、史料16のような文書を流布させたのですか?

これは文書ではなく、阿倍皇太子が五節舞を舞った場において、天皇や太上天皇の言葉として宣布されたもの、つまり口頭説明?です。その場に集った「群臣」たち(公卿)に、その舞の意味するところを明確に示したというわけです。

なぜ女帝の存在が認められているのに、女性皇太子は問題視されたのでしょう。男尊女卑の思想は仏教が入ってきてからですか。 / 安積親王を皇太子にするという話はなかったのでしょうか。

女性の皇位継承はもちろん先例がありますし、母系継承も律令では認められていました。しかし、王位継承が大王・天皇の「男子」を優先に行われたことは間違いありませんし、皇太子は、天皇の死後における継承の混乱を予め回避するために創出された地位ですの…

皇太子という地位は律令体制成立後とのことですが、次期天皇の地位が律令に規定されていたとするなら、この時代から既に日本では王と法で制限することが実現していたのでしょうか。

残念ながら、天皇に関する規定は律令にはありませんでした。やはり、法は王のもとで臣民を統制するものと位置づけられていたのです。しかしそれはあくまで制度上のことで、現実には、律令法は天皇の活動を規制する力を発揮しました。その画期が、以前にお話…

遷都前の藤原京の地形は、南から北に向かって低くなります。平城京は北高南低の地です。このような占地の変化は、礼的秩序の導入と関わりがあるのでしょうか。

もちろん関係があります。ご承知のとおり、天子が南面している北側は南より高くなければなりません。藤原京は東南方向から西北方向へ傾斜してゆく地で、平坦面を確保するだけでも大規模な整地を必要としました。おまけに宮城が作られた周辺は低湿地でしたの…

補陀落渡海のようなものは、平安以降は流行しなかったのでしょうか。

補陀落渡海について、その後、水葬や人身供犠などへ姿を変えていったことはあるのでしょうか。

補陀落渡海について、何かの本で「補陀落浄土」と浄土信仰と混同して書かれていたのを覚えています。実際に、この2つの信仰が結びつくことはあったのでしょうか。

浄土信仰は、必ずしも「極楽浄土」だけを指すわけではないのです。例えば『阿弥陀経』などでは、東・西・南・北・上・下の六方にそれぞれ異なる浄土が設定しています。いわゆる阿弥陀如来の極楽浄土は西方に位置しますが、東方には薬師如来の瑠璃光浄土が存…

ヤマト王権にとって、関東や東北も、紀伊や出雲と同じように境界として認識されたのでしょうか。

境界は境界でしょうが、出雲や紀伊とは少々位置づけが異なります。早い時代においては、ヤマトにとって、東国は「肥沃で強力な人々の住む土地」と見られていたようです。中華思想の導入によって「夷狄」概念が当てはめられ、その文化は差別的に扱われてゆき…

橘諸兄も藤原氏と密接な繋がりがあったということは、藤原氏の影響力は衰えなかったということでしょうか。

むしろ、藤原四子が相継いで死没してしまったので、それを補うミウチ勢力=四家の代替要素として諸兄を昇格させたとみるべきでしょう。藤原氏の司令塔は消失し、光明皇后だけしか残っていませんでしたので、四子の次の世代が育ってくるまでの間、それこそ中…

史料13で、聖武天皇が橘諸兄を誉めているのは、諸勢力の流れをよく読んでいるということなのでしょうか。

詔勅の内容がどれほど天皇の個人的意図を反映しているかということは、史料ごとに充分考えてみなくてはなりません。史料13の場合は、草壁皇統を維持するミウチ的まとまりの総意といえるでしょう。公卿の席は限定されていますので、橘氏が有力な立場を維持し…

五世王が皇親としての待遇を受けられなくなることは分かったが、臣籍降下して何かメリットがあったのだろうか。

橘諸兄の場合は、すでに聖武や光明子の意向を受けているので、朝廷内へ恒常的に公卿を輩出しうる家を構えられるという期待があったのでしょう。姓も後に朝臣へ改姓されていますし、賭には成功したといえそうです。