日本史概説 I(10春)
「姓」には、真人、朝臣、宿禰、忌寸、臣、連、造…などがありますが、これは氏族と王権との関係、奉仕の来歴を示す称号です。その姓自体に、氏族の基本的な属性、いかなる職掌によって王権に供奉してきたかなどが分かるようになっています。つまり、ウヂナは…
光明立后は、藤原氏腹の皇子を嫡流とすることを意味します。藤原氏の血を受けた首皇子や光明子はともかく、元明や元正がなぜそのことを推進したのかどうかは分かりませんが、やはり持統天皇・草壁皇子と藤原不比等との関係が大きいのだろうと思われます。不…
位階によって、給与や就ける官職に差違が生じますので、昇進した意味は確実にあるのです。
発想としては周王朝の頃から存在しましたが、制度的に確立してゆくのは、災異思想が発展した漢代でしょう。日本の律令国家も、歴代中国王朝の思想を受け継ぎ、祥瑞を政治的に利用してゆきます。ちなみに亀は祥瑞のなかでも一般的なもののひとつですが、講義…
やはり、両者を政争の関係でのみ捉えるのは誤りである、ということでしょう。長屋王は不比等の後継者として四子とは盟友関係にあった。ゆえに、不比等の邸宅、四子の邸宅と極めて密接した場所に生活していたのです。彼にしてみれば、政治路線が異なってきた…
京内の土地は位階に応じ、面積・場所などが区別されて支給されます。下級官人であっても、京官であれば京内への宅地班給が保証されます。しかし、狭苦しい京の宅地は仮の宿で、郊外に本拠を置く人々も少なくなかったようです。また、講義でもお話ししました…
すべてが道教的とみなされたわけではありません。例えば仏教にも病気平癒の呪術があり、「僧尼令」という法律によって使用が制限されていたのです。律令国家は、中国において常に反乱の火種となってきた道教の正式な輸入を拒否しました。ゆえに道教由来のも…
これは中国の『千金翼方』という医学書に記述がある呪法なのですが、恐らく何らかの道教経典などに神話的裏付けを持つものでしょう。道教では六朝期、あらゆる精霊、神的存在を「鬼」という概念で把握する試みが生じ、これをコントロールすることで疫病や災…
まず、「神」という言葉の定義をしっかり考えなくてはいけません。キリスト教の枠組みだけで「神」を論じるのは大きな間違いです。例えば神を、「人智を越えた力を持つ霊的存在」とするならば、日本にも「神になる」思想はあります。もともとは神仙思想の導…
これについては、よく分からないのが現状です。しかし、『霊異記』の編纂者である景戒は、長屋王首班体制に弾圧された行基の熱烈な信奉者でした。『霊異記』に採録された個人に関わる説話のうち、最も多いのが行基関連です。また、行基の弟子で、大仏開眼会…
中国から怨霊信仰が将来され、それが一般化してゆくのは平安時代に入ってからです。『霊異記』が編纂されるのは平安初期、ちょうど早良親王の怨霊などが問題化してゆく時期と重なるので、長屋王の祟りの解釈はそれを反映してのことでしょう。しかし、『続紀…
講義でもお話ししましたが、4〜5世紀の紀ノ川河口には紀水門という外港が置かれており、海外の文物はここからヤマトの中枢部へ流れ込んでゆきました。そのため紀伊周辺は境界視され、異界・他界との接点といったイメージが付与されてゆきます。長屋王が流…
もちろん、実際の敷設はそれほどスムーズに進んだわけではありませんでした。すでに藤原京、平城京などで高度な土地造成、建築技術を駆使していた古代国家ですから、土地区画における技術的困難は大きなものではなかったでしょう。問題は労働力や財源の確保…
基本的に既墾地は没収されませんが、ある意味で没収を強行する仕組みは存在しました。未開発地の開墾を行うには、まず国司に申請して許可を得、位階に応じた限度に基づき土地の占定を行います。しかし、それから3年経っても開墾が行われない場合には、国司…
やはり厳密には異なります。まず太政大臣は大宝令・養老令に規定のある令制官司ですが、知太政官事は律令に規定のない令外官です。慶雲3年(706)には、右大臣に準じて季禄を支給すると定められているので、待遇的には太政大臣より下となります。また令制前…
これは前提的な話なのですが、草壁皇統の維持と発展という政治目標は、草壁の母親である持統天皇と藤原不比等との政治的協力のなかで実現されてきたものなのです。不比等の前半生には分からないことが多いのですが、31歳の折に従五位下判事という法曹関係の…
関係ある、といえばありますね。蘇我氏のうち、本宗家は乙巳の変で滅び、石川麻呂も結局は謀叛を疑われて滅ぼされてしまいます。石川麻呂の「石川」は地名で、蘇我氏の根拠地のひとつ、河内国石川郡(現大阪府富田林市の東半と南河内郡一帯)に由来します。…
大化前代、氏族制のなかで阿倍氏という氏族が台頭してくる過程の話ですね。まだ位階が成立する以前の段階です。供御は常に王の側近に奉仕し、その身体の安全を保証する役割を持っていますので、隠然たる権力の温床となります。もちろん、実際に食物の料理や…
「心配はなかったのか」といわれますと、可能性としては否定できないものがあったでしょう。武力を用いた反逆自体は、自分たちにとってもリスクが大きいのであまり計画されないでしょうが、藤原氏の対立勢力になる危険は常にあったと考えられます。藤原氏の…
藤原不比等も石川(蘇我)娼子を娶り、武智麻呂・房前の2人を得ていますので、長屋王の石川夫人との婚姻も不比等の意向によるものでしょう。桑田王は、身分的に皇位継承には関連してきませんので、恐らく藤原氏側の判断では排除の対象者に入っていなかった…
せいぜい舎人や家司の人々、その氏族的繋がりだけだったのではないかと思います。皇族の場合、後援となる氏族勢力が姻族や養育氏族に限定されますので、彼らの協力が得られなければ、政治的・軍事的に孤立することを余儀なくされます。長屋王は、藤原氏・阿…
藤原氏の政治勢力に匹敵しえたのは、議政官クラスでは、やはり大伴氏や阿倍氏でしょう。ともに軍事関係に明るく、擬制的な同族関係を結んだり、職務を通じて傘下に入った氏族は非常に多かったと考えられます。彼らは、朝廷という支配者集団と自氏族を安定的…
現代的な意味では男女平等といいがたいですが、女性の力が認められていたことは確かです。女帝は中継ぎなどとよくいわれますが、仁藤敦史氏などは、母系継承には法的根拠あると指摘しています。『養老令』 継嗣令/皇兄弟条に「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親…
確かに、「長屋親王」の方を重視して長屋王の地位の相対的上昇を語りながら、「吉備王子」を表記の揺れで片付けるのは安易かも知れません。しかし、ヤマト言葉をいかなる漢字表記で表すのかという点については、奈良時代前半にかなりの振れ幅があることは確…
残っている史料から判断すると、長屋王は策謀をめぐらせて藤原氏の勢力を削減しようとは考えていなかったようです。彼の派閥は確かに存在しましたが、皇親の長老たる舎人親王や新田部親王は、彼の罪を糾問する側に回りました。彼に娘を嫁がせている阿倍氏、…
確かに、表面的にはそうみえます。しかしここでは、一度発せられれば撤回はありえない(綸言汗の如し)とされる天子の命令が覆され、取り消されたことが問題なのです。また、制度を超越する存在として律令にも規定されなかった天皇(天皇の権威・権力につい…
記録にはきちんと残っていませんが、恐らく少なくなかったと思われます。「基王」にも、何らかの障害があったのかも分かりません。『古事記』や『日本書紀』の神代巻で、列島を産み落とすイザナキ・イザナミが最初に生んだ水蛭子(ヒルコ)は、不具であった…
ハラエやキヨメの儀礼と水とは密接に結びついています。講義でもお話ししましたが、例えば大祓の祝詞は、根こそぎ切り払われた罪や穢れが、風の神・川の神らによって海の神のもとまで運ばれ、最終的に根国に送られるプロセスを述べています。平城京などでも…
補足資料のレジュメを作成しましたので、次回また簡単に説明します。
日本史や東洋史で卒論を書くつもりなら、原文を読む力がなければだめでしょう。結局、「書き下し」や「注釈」はある一個人の解釈によって成立するものですので、これも事実そのものではありません。漢文は読み方によって意味が違ってしまう場合もありますし…