日本史概説 I(11春)
【テーマ】 講義のなかで扱ったトピックについて、自分の関心のあるテーマを任意に設定し、講義の内容を踏まえたうえで自分なりに調査し、考察しなさい・自分なりの問題観心を持つこと。文献は批判的に読み込むこと。事実/見解を区別すること。他人の見解/…
古墳時代のところでも勉強しましたが、これは辟邪ですね。基本的には中国の建築様式を踏襲したものですので、中国の塗装の仕方に淵源します。宮廷や寺社などの内部を西域とし、邪なものが侵入してこないよう防ぐ効果が期待されています。
なぜ王名がカナ表記になっているかというと、『古事記』『日本書紀』で用いている漢字が異なるためです。大王・天皇の場合、漢風諡号であれば、奈良時代半ばに一括して撰上されたものなので、1字1字に固有の意味を付した統一的な表記が採られています。し…
まずは、中国の儒教経典・史書・類書等々の漢籍、仏典に似たような文言がないかどうか調査し、記事の自律性(他書からの援用によって成り立った文章ではないこと)を確認します。また、前後の政治・社会情況からみて自分の扱うくだりに不自然さはないか、作…
最初の時間にお渡しした、崇仏論争などがそうですね。私は、日本仏教が中国仏教と同じプロセスを経て隆盛に至ったことを主張する内容と考えています。プリントを確認してみてください。
『日本書紀』が国家の正史として正統的位置づけを受けており、古代においては、『古事記』はその参考書程度の価値しか認められていませんでした。後者が現在のように広く知られるようになったのは、国学が漢字文化の影響を排した原日本の姿を『古事記』に認…
『日本書紀』自体が舶載されたとの記録は残っていません。しかし、同書は成立当初から律令官人の基礎知識とされ、紀伝道(史学科)の博士による講義が行われています。律令国家のアイデンティティとして共有を図ったことがうかがえます。しかし、遣唐使など…
これは根本的な問題ですね。私が解答を出してしまうより、皆さんがぜひ考えてみてください。
『日本書紀』の記述ではそうなっていますが、実際には、ヤマト地域との間に大きな政治的確執があったということでしょう。ヤマトの大王家に大きな力がなくなっていたとすれば、それを代表していたのは大伴・物部といった側近や葛城氏系の豪族たちであったと…
継体天皇即位の背景には、息長氏という近江(滋賀県)の有力豪族が存在したと考えられています。息長真手王から敏達、舒明、中大兄に至るラインは息長系なので、蘇我氏を含む葛城氏系と大王の姻戚を競った勢力と考えられます。継体以前の動向は不明ですが、…
やはり王権の構成員として一定の責任を果たしてゆくのを、支配者層全員が監督してゆくというあり方でしょう(研修期間とでもいうべきでしょうか)。その過程で補佐として付く豪族などが、即位後の権力基盤を形成してゆく。王子宮の運営から王位継承へ展開す…
武器が破邪の力を持つと考えられたことはすでに何度も話しましたが、まず中国戦国末の古典『礼記』に、神聖な樹木である桃で造った弓、同じく蓬で造った矢などが、破邪の武器として登場するのです。中国の出土文字文献には、戦国末のゴーストハントについて…
あまり入門書的なものはないのですが、江戸時代における伊勢の式年遷宮を絵画的に記録した文献が、『神宮遷宮記』第7巻図録編(175.8:J523:1992:v.7)に収録されています。木鎮め祭儀についても描かれている場面がありますので、参考にはなるかと思います。…
これは奈良時代のテーマですが、最も大きな要因は、中国と対等に付き合うべく中国的都城を建築したつもりで、意気揚々と大宝の遣唐使を派遣したところ、現実の中国都城が藤原京とはまったく異なるという事態が発覚したためです。遣唐使の帰国後も、しばらく…
「藤原京」という名称に関しては、実は、当時の正史であった『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない名称なのです。『書紀』では「新益京」という表現を用い、天武の「新城」建設事業を引き継ぎ、飛鳥に対して新しく付け加えた都城と位置づけられていた…
一応は都ですので、全国から物資が集積される流通の中心ですから、食糧事情は悪くなかったはずです。排水施設についても、縦横に水路が巡っていましたので、貴族邸宅などでは水洗のトイレも設置されていました。ただし、これは平城京や平安京においてもいえ…
これは、前代の飛鳥京までヤマト王権の中華思想的空間表現であった、「王宮の位置する場所こそが世界の中心である」という考え方が持続した結果でしょう。飛鳥では上記の発想のもと、須弥山像や世界樹としての斎槻が立てられました。飛鳥地域の地理的環境を…
藤原京の建設に際しては、その5年前に頒下された飛鳥浄御原令が重要です。律令国家の建設へ向けて、都城の整備・律令の編纂は並行して進められてきましたので、度量衡から宅地班給の規定まで、基本となる諸制度は完成していたと思われます。しかし、藤原京の…
講義でもお話ししましたが、平城京・平安京に関する文献・絵画・考古資料、それらが依拠した中国の都城に関する史資料が利用されていますが、やはり想像力に依存する部分は大きいと思います。例えば、遷都1300年でも話題になった平城京跡の復原朱雀門でさえ…
古代日本の大王・天皇についても、斉明天皇の東北経略・半島出兵や、天武天皇の壬申の乱など、節目節目に強大な軍事力が動員されることは認められます。しかしそれが長期間恒常的に行われ、王権自体の軍事的色彩が濃厚になることはなかったようです。ひとつ…
史料的には確認できませんが、それも上記に触れた中国王朝との遠隔、海の問題が有利に働いたものと思います。中国王朝は辺境の倭について、朝貢してくれば政治的に利用しようとしますが、そうでなければ積極的に関与する意味(余裕?)を見出せなかったので…
大量の銅鏡を下賜したのは、一方で中国王朝の力を見せつけるためでしょうが、賜与される側としては、それを同盟あるいは従属下の政治集団へさらに賜与し、連合・奉仕関係を強固にするねらいがあったものでしょう。実際に三角縁神獣鏡はそのように使われたよ…
実際に「好太王碑文」をみますと、倭が半島に出兵して百済や新羅を支配下に置いているとの文言が出てきます。これは高句麗の立場を正当化するための碑文ですので、ややバイアスのかかっている点に注意しなければなりませんが、それでも倭が三国の関係を変化…
そうです。百済は、当然倭より中国王朝との関係が長く、やや反抗的な高句麗を牽制する意味でも重視すべき存在でした。宋としては、倭自体にも半島情勢を自国に有利に調整するうえで関心を持っていたと思われますので、一方を公認し一方を認めないという飴と…
やはり、航海については安全というわけにはゆかなかったでしょうし、恐らくは朝鮮半島の南東岸を進んだと考えられますが、半島内の政治的情勢によりうまく通信ができない場合もあったでしょう。だからこそ、倭は加羅諸国や百済と同盟を結び、半島南部に政治…
講義のなかでも触れましたが、例えば『宋書』のなかで讃が宋へ派遣したとある司馬の曹達は、名前からして渡来人、恐らくは中国人です。当時の府官制下における文書行政や外交、とくに上表文の作成などに関しては、中国や朝鮮半島からの渡来人に負うところが…
洛書というと限定的すぎますが、日本語で読める亀関係の文献としては、千田稔・宇野隆夫編『亀の古代学』(東方出版、2001年)、東アジア怪異学会編『亀卜』(臨川書店、2006年)がお薦めです。『日本書紀』については、時間があれば授業でも取り扱いますが…
そうですね。洛書自体が陰陽和合する宇宙の象徴ですので、亀甲が世界を表現するという各地に広汎に伝わる考え方へ連結します。亀がなぜそれほど世界中で信仰されるのか、考えてみると面白い問題です。
中国殷代に亀卜に供された亀は、クサガメやハナガメといった、それほど大きくもないリクガメでした。日本では鹿卜を経て古墳時代に亀卜を開始しますが、以降近代に至るまで、亀甲にはウミガメのそれを利用しています。それゆえ、ウミガメの産卵地である紀伊…
『書紀』に須弥山石が立てられた地理的場所と発掘された地点がほぼ同じであること、中国で造られた須弥山の画像やこれを模した香炉、後に東大寺大仏の蓮弁に描かれた須弥山図などと比較すると、紋様や形態に多くの類似点がみつかるためです。なお、夷狄に対…