日本史概説 I(12春)

北狄・東夷・南蛮・西戎など、わざわざ東西南北で字を変えているのには、何か理由があるのでしょうか。

「四夷」といいますが、東西南北に異民族を想定する考え方自体は非常に形式的なものです。しかし、当時の中原地方が四方を異文化・異民族に囲まれており、具体的な何かを前にしながら整理されていった概念でもあります。獣を意味する狄・戎は、狩猟や遊牧を…

『日本書紀』の崇仏論争は史実ではないとのお話ですが、仏教の思想は、それだけ当時の人々に受け入れられやすい教えだったのでしょうか。

確かに、「仏教信仰」が大きな混乱もなく受容されていった、ということはあります。しかしそれが、どの程度「仏教思想」を理解したものだったのか考えると、大変疑問でもあるのです。仏教はインドで生まれ、西域を通って中国、朝鮮半島、日本へと伝来します…

「古人大兄王」や「中大兄王」など、語尾に「王子」や「王」と付いた名前が出て来ます。これが「皇子」や「親王」になるのはいつからでしょうか。 / 大王と天皇の具体的な相違は何ですか。いつから変わったのですか。 / 大王は神に近い存在だったのでしょうか。それとも江戸幕府の将軍のような存在なのでしょうか。

すべて、「天皇」の創出に関わることですね。最後の授業のときに、詳しくお話しすることができるでしょう……たぶん。

日本へ仏教を伝えたのは百済とされますが、朝鮮三国は、それぞれに対立しながらも仏教を通じた交流などはあったのでしょうか。

朝鮮の仏教事情にはあまり詳しくないのですが、いずれも4世紀末までには仏教が伝来しており、新羅には高句麗から伝えられたとされています。ともに中国へも留学僧を輩出していますので、僧侶同士の学問的交流や、政治的関係を前提とした知識・技術供与など…

なぜ最初の僧は男性ではなく女性なのでしょう。 / 仏教の担い手は、いつ頃から男性が支配的になるのでしょうか。

一説には、女性を神の憑依する存在と捉えるシャーマニズムが根底にあったからだ、とされています。それなりに説得性のある見解ですが、しかし、同時期の中国や朝鮮の仏教信仰を調べてみると、いずれも女性が大きな役割を果たしているのです。アジアの特徴と…

王殺しは推古朝の制度改革に大きな影響を与えたと分かりましたが、大化の改革とも関係があるでしょうか。

政治史的には、蘇我氏の王殺しが結局その独占体制を構築したと考えれば、乙巳の変の遠因になったとはいえるでしょう。また文化史的には、皇極朝における真の支配者=王は蘇我入鹿であったと考えると、これもまた王殺しなのだといえるかもしれません。事実、…

「歴史学をめぐる諸問題」の保立先生の講義のなかで、王を殺したことでその王が悪霊となり、自然災害を引き起こすと習いました。今回の王殺しの問題と、何か関係があるのでしょうか。

保立先生の講義で語られた「王殺し」は、天皇のことではなく、例えば早良親王の横死とその怨霊化についてであったと思われます。いわゆる「御霊信仰」ですね。これは非業の死者が悪霊化するという中国伝来の思想に基づくもので、菅原道真をはじめ、王「が」…

崇峻殺害は、一種のクーデターのような感じがしますが、どうでしょうか。 / 崇峻暗殺について、『書紀』に蘇我氏の名前が記されているのは、編纂者による政治的述作なのではないでしょうか。

馬子の側からすれば、政治の実権は彼が掌握していたので、クーデターにはなりえません。基盤はしっかり据えたうえで、首をすげ替えたに過ぎません。しかし、支配者層に与えた衝撃は大きかったものと思われます。なお、『書紀』は皇極朝の蝦夷・入鹿について…

史料18で、崇峻天皇は密かに武器を集めていたとありますが、天皇は何をしようと思っていたのでしょうか。

文脈からすれば、蘇我馬子を排除しようとしたということでしょう。しかし、崇峻が先に殺されてしまったので、本当の理由は分からなくなってしまっています。

仏教が公伝以前に伝わっていたのなら、なぜそのときには問題にならず、公伝になってから崇仏論争に発展したのですか。

私伝仏教が実際にあったことは、前回の質問に対する回答(仏獣鏡の件)でも述べました。講義でお話しするように、私は『書紀』に書かれたような形での崇仏論争はなかった、と考えていますが、中国等々でも、民衆が私的に信仰する範囲では宗教弾圧は行われて…

なぜ、蘇我馬子自身が僧にならなかったのでしょうか。別に仏教を信じていたのではなく、政争に利用しただけなのでしょうか。

仏教を信仰する方法は、僧になるだけではありません。とくに東アジアの支配者層の間では、仏教の有力なパトロンとなることで、その霊験や利益に与ろうとする信仰が強くありました。後に鎮護国家の所依経典として重視されてゆく『金光明最勝王経』などにも、…

『日本書紀』で、蘇我稲目が欽明天皇に「西蕃諸国が仏を礼拝している」と話していますが、稲目はそのことをどうやって知り得たのですか。 / 高校の頃、蘇我馬子らが崇仏を主張したのは渡来人と繋がりがあったからで、崇仏を行えば利益が得られるからだったと聞きましたが、本当でしょうか。

講義でお話ししたように、蘇我氏は葛城氏の伝統を継承し、多くの渡来系氏族を傘下に抱えています。また、外交にも大きな力を発揮していましたので、物部や中臣より海外事情に通じていたと考えられます。蘇我氏の判断としては、まず仏教文化を習得しない限り…

村落で納められた「初穂」は、現在神社でお守りなどを飼うときに納める「初穂料」と、何か関係があるのですか。

そうですね。古代の初穂のあり方が、現在の神社に「変形して」用いられているものです。

調と贄の違いとは、稲かそうでないかということでしょうか。また、海産物も「初尾」と呼ばれるのでしょうか。

稲作を主要な生業としている村落と、狩猟や漁労を生業としている村落とでは、定住のあり方も含め共同体としての構造が異なります。よって、支配の仕方についても異なる施策を用いねばならない。調と贄とは、名称だけでなく、支配対象としての共同体の把握の…

古代の贄が動物の肉であったのが、神憑り的な神道や仏教に後押しされて、人の肉を用いる生け贄の概念に発展したのですか?

供犠とは、理論的には、人間にとって最も大事なものを捧げる祭儀です。そうしなければ、神は応えてくれないと考えられていたのですね。よって、そもそもが人間を犠牲に捧げるものとして行われていた、とみられているのです。それがやがて、執行主体の共同体…

「史」の字は「中正」を表し、史官は客観的に歴史を記述する役職のはずなのに、皇帝を正当化する内容しか記述できなかったと思うと、複雑です。

中国の正史というと、皇帝を正当化する内容と誰もが思ってしまうのですが、内容をより詳しくみてみると、そればかりではないことが分かります。王や皇帝を批判的に記述していたり、直諫を呈している場合も少なからず存在するのです。史官の理想としては、君…

物部氏や大伴氏などの豪族集団は、天皇家とは血縁関係があるのでしょうか。

大伴氏の祖神は天忍日命、物部氏の祖神は饒速日命で、ともに高天の原に由来する天神ですが、そのパンテオンを構成する神であることは確かでも、皇神の一族ではありません。大伴氏は難波から紀伊にかけての領域を本拠とし、物部も河内を本拠にしていましたの…

部民制の件ですが、「岡部」さんや「阿部」さんなども渡来系であると考えていいのでしょうか。 / 中臣氏も渡来系でしょうか? / 供御の発展した職掌を有するのが阿倍氏であり、海上交易を通じて外交や対外軍事にまで関わりを持ったとのことですが、唐に留学して帰国できなかった阿倍仲麻呂なども関係があるのでしょうか?

部民制は、必ずしも渡来人のみを編成したのではありません。「阿部」は「阿倍」と同じですので、授業でお話ししたように、供御の職掌を担う人々であり渡来系氏族ではありません。中臣氏も、氏族としての枠組みは中国的史官を前提にしていると考えられますが…

葛城氏は本宗家が途絶えた後も、王朝に政治的関与をし続け(られ)たのでしょうか。

葛城氏系統という意味では、蘇我氏が壬申の乱に至るまで政権の首座を務めていますが、葛城臣自体の系統は振るいませんでした。蘇我氏も含めて、天皇制という王位継承のシステムが確立していない飛鳥時代には、大王家と血縁関係を結ぶのは、メリットはもちろ…

渡来人によって伝えられた技術は、『書紀』『古事記』などに記載された内容を信用することができるのでしょうか。

『書紀』や『古事記』が政治的に改変する必要がなく、また中国大陸や朝鮮半島の情況、後の時代の状態と比較してみて問題がなければ(例えばば、奈良時代の現実では極めて低い次元に留まっていた技術が、『書紀』ではとても高等なレベルで記録されているなど…

冠位十二階が定められたということは、氏族制のもとではしっかりした「礼」が存在しなかったということでしょうか。

『三国志』魏書/東夷伝/倭人条などをみますと、邪馬台国には身分が存在しており、下級の者が上級の者に対してとるべき作法が決められていたようです。以前に講義でもお話ししたとおり、上記の記述には陳寿の政治的視線がみてとれますので、どれほど事実性…

群臣層の間で、職掌を奪い合うようなことはなかったのでしょうか。

少し時代が降りますが、祭祀を司る中臣と忌部の間には、神祇官の職掌をめぐって争いが起きています。鎌足以降に突出した中臣氏が、神祇祭祀の要職を独占するようになったためです。氏族制の頃には、それぞれの氏族が王権奉仕の歴史のなかで培ってきた職掌を…

仮に、ヤマト王権全体でひとつの大きな軍事行動を起こすといった場合、軍事担当の氏族すべてが強調して動かしたのでしょうか。

例えば、崇仏論争の果てに起きた物部守屋討滅戦のときには、大伴・巨勢などの諸豪族・諸王子たちからなる連合軍を、蘇我馬子が率いています。それぞれの豪族たちは私兵を抱え、大伴・物部らの武力が大王の直轄軍をなしていたと考えられますが、上記討滅戦は…

大王の寵臣などが、既定の8氏族の他に合議の場に参加したとのことですが、何か例があれば教えてください。

例えば、敏達朝の寵臣三輪君逆です。三輪氏は、古来三輪山を奉祀してきた祭祀氏族です。本拠地の隣接していた阿部氏とも協働し、阿倍比羅夫が東北を征討する際には、三輪神を勧請して臨んだとも伝えられています。同氏はもともと群臣協議の場に列する氏族で…

合議制というと、受験では鎌倉時代にあったことを習いましたが、すでに飛鳥時代にあったとのことで驚きました。藤原氏などの独占政治といった印象なのですが、どうなのでしょうか。

合議制は、何も鎌倉時代だけではありません。日本の歴史のなかでは、むしろ合議制の行われなかった時代の方が少ないといえるでしょう。古代においても、群臣の協議の結果に大王/天皇が承認を与えてゆく、という形式が一般的でした。その協議を統括する氏族…

中国や韓国では常に起こりえた易姓革命は、日本では本当に起きなかったのでしょうか。

起こりうる情況は、何度かありました。室町幕府の足利義満の時期、安土桃山時代の織田信長の時期、そして江戸幕府の時期ですね。とくに江戸幕府は、将軍自体が神格化するような宗教的権威を整えていったので、開国の混乱期を乗り越えれば天皇制は終わってい…

7世紀の世代内継承で、第II期だけまったく天皇が出ていないのはどうしてでしょうか。

まずひとつは、推古大王が長生きをしたということでしょうね。厩戸王をはじめとして、何人かの有力な大王位継承者はいたのでしょうが、崇峻殺害に連なる政治的情況として、誰もが即位できない特別な事情を抱えていたのでしょう。例えば厩戸王は、蘇我氏の身…

仏教が公伝以前に伝わっていたとすれば、その痕跡はどこにみられるのでしょうか。

例えば、画文帯四仏四獣鏡、三角縁仏獣鏡などが出土しています。ともに古墳時代、4世紀後半頃のものです。神仙と神獣を配したのが神獣鏡ですが、こちらは神仙を仏の姿に置き換えたものです。中国の六朝後半には、仏教と道教との交渉が進み、お互いがお互い…

漢風諡号の使用意図は何ですか?

もともと諡号とは、亡くなった王・皇帝などに対し、その治世や業績を象徴するような称号として贈られたものでした。原型である古代中国王朝では、その業績に応じて一定の称号が贈られており、最上級のものは「文」「武」、最下級のものは「霊」などと付けら…

日本の律令制など国家の基礎となるものは中国からの輸入だと思うのですが、日本と中国の罰則や規律はどちらが厳しいものなのでしょうか?

やはり、中国律の方が厳罰主義で、日本はその実状に合わせさまざまに緩和されています。もともと、律に貫かれているのは、中国の儒教的な価値観、倫理観でしたので、それを共有していない日本列島では、なぜそれが罪悪になるのか分からない、処罰されるのか…