日本史概説 I(15春)
もちろん渡来人による伝聞もあるでしょうが、中国王朝と国交が開かれていた時代には、使者が直接現地へ行って目撃してきています。唐長安城をめぐる最新の情報は入手することができず、そのため藤原京は充分な「中国の再現」には至っていませんが、少なから…
奇跡というのならば、藤原京などが完成すること自体が奇跡です。また、多くの奇跡が「伝聞」によって形成されるように、伝説や神話の類も奇跡を構成しうるのです。天皇の権威を受けて行われる神殺しなどは、まさにその類のものでしょう。また『日本書紀』を…
国風諡号も漢風諡号も、平安時代には途絶してしまいます。以降の天皇は、居所や所縁の深い場所に因む追号を贈られるのみになってゆきます。近代以降は一代一元の制度のもと、皇位に就いていた元号がそのまま諡として使用されているわけです。
国風諡号はヤマト言葉で作られているので、もともとの発想としては、必ずしも文字を伴う必要はなかったと思われます(その根源は諱であるか、あるいは宮号など公的な場で用いる号であったのでしょう)。一般民衆が神の名を呼ぶように、恐れ憚りつつ口にする…
律令は法家思想と儒家思想の融合からなっていますが、法律を支える思想、倫理・道徳自体は儒教のものです。よって、条文のあらゆる点に儒教の発想をみてとれます。位階について定めた官位令、位階や場所、儀式などに応じて服装を定めた衣服令、故人との関係…
史料というのであれば、やはり『日本書紀』が明確です。百済関係の文献も引用されており、研究が進んでいます。岩波書店の日本古典文学大系や小学館の新編日本古典文学全集など、注釈書も充実しています。ただし分量が多いので、何か朝鮮半島との関係を研究…
大丈夫です。これまで他の質問にも答えてきたように、問題意識を明確に書く、古代のなかでなぜ死生観、宗教観をテーマにする必要があるのか、その正当性をしっかり述べることが大事です。
何度か説明しましたが、古代の事例を扱う限り、講義で触れた内容は必ず絡んでくる。そのとき、授業でどのような説明の仕方をしていたかがきちんと踏まえて書かれているかどうか、ということです。歴史に対するものの見方、例えば東アジアの視点でみてゆくと…
例えば、仙台市の郡山遺跡穵期官衙施設です。時代としては7世紀半ばから末年の施設で、すなわち阿倍比羅夫の東北経略とほぼ同時期ということになります。規模的には律令制下の郡衙に近いものですが、後の陸奥国府の前身のようなもので、当時のヤマト王権に…
中国的な皇帝は、四方に北狄・東夷・南蛮・西戎の異民族を抱え、これを徳治によって文明化してゆく建前を持っていました。いいかえれば、蛮族を従えている者こそが皇帝だったのです。倭は、中国や朝鮮諸国に対してそうした建前を作り出すため、蝦夷や隼人と…
当時の国際情勢のなかで、中国化しなければ諸国との競合のなかで置いてゆかれてしまう、との危機感が強かったものと思われます。その点、ある意味では、現在よりもよほど朝鮮諸国、中国と密接に結びついた政治意識のなかで、王朝が経営されていたものと思わ…
律令の規定では、戸籍は諸国において3部作成され、それぞれ当国、民部省、中務省に保管されました。これらの官司が整備されていなかった天智朝段階で、どこに保管されていたかは分かりませんが、恐らくは近江朝廷のどこかに管理されていたのでしょう。永久…
百済王家の子孫を標榜する人々がいます。日本に人質として送られてきていた百済義慈王の子息のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、日本に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。…
まったく見当がつきませんが、新羅との連合軍で攻めてくる形となれば、かなり危機的であったと思います。朝鮮半島に近い九州や中国地方、北陸地方などに拠点が作られれば、長期にわたる戦闘になった可能性があります。当時の政府が実際に「リアルな」危機感…
一般的な説明の仕方としては、外敵の存在を強調することで国内の分裂をまとめる、ということです。明治の征韓論もしかりですが、ナチスのヘルマン・ゲーリングなどは、「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ…
蘇我氏は渡来系氏族を束ねている立場ですので、親百済的でなかったというわけではありません。実際、蘇我氏の建立した飛鳥寺は、百済の王興寺との共通点が多く、実際に百済からの技術者が渡来して造営したものと想定されています。よって問題は、なぜ斉明王…
乙巳の変ののちは、大王位継承をめぐってやや悶着のあったらしいことが、『書紀』に語られています。皇極は当初、位を中大兄に譲ろうとしますが、「年長の有資格者として古人大兄・軽皇子がいる」との鎌足の助言を受けた中大兄は、これを辞退します。古人大…
講義でもお話ししましたが、蘇我氏はほぼ山背大兄を後援しており、田村皇子とは政治的に対立していました。そのなかで蝦夷が、朝廷を構成する他の派閥との協調を保つべく、田村派に妥協したのです。その結果蘇我氏内に紛争が生じたため、入鹿は山背大兄を排…
蘇我馬子と同時代の王族で、推古大王と密接な関係にあり、政治を主導する説得力のあったひとが、厩戸王以外にいなかったのでしょう。また彼は、法隆寺をはじめとして、王族としては初めて本格的な崇仏を行っていましたので、仏教界においてかなり早くから尊…
「個人の感想で歴史をみても仕方ない」という発言をしましたっけ。記憶にないのですが、誤解を与えるような説明をしたのでしょうね。『ヒストリア』に関して批判したのは、『日本書紀』の記述とそれから考察される「史実」、里中満智子さんのマンガとが、ご…
美術館でも構いませんが、歴史学のレポートですので、歴史的視点で書いてくださいね。
別の授業ですので、1本では困ります。ただし、1つの展示を別々の観点からみて、2つのレポートにするのなら「アリ」でしょうか。
以前は女帝の問題をきちんと扱っていたのですが、平安時代までゆくために割愛してしまいました。指摘のとおりで、7〜8世紀は女帝が集中しています。かつては、本命の男性天皇が即位するまでの「中継ぎ」論が一般的でしたが、推古朝は蘇我馬子らによる中国…
古韓音は、具体的には、ガ(奇・宜)、キ甲(支)、ケ乙(挙・希・居)、ソ甲(巷・嗽)・タ(侈)・チ(至)・ヌ(蕤)・ヘ甲(俾)・マ(明)・ヤ(移)・ヨ乙(已)・ロ乙(里)などの音です。渡来人の関与したとみられる推古朝遺文や、『書紀』のなかで…