日本史概説 I(15春)

幅80メートルの朱雀大路は、夏など、日陰もなくて大変だったのではないでしょうか。

平城京が造営されたとき、以前は都だった場所はどうなったのでしょうか。

完成したての藤原京は、人口などの規模はどの程度だったのでしょうか。

人間の開発による環境破壊という概念は、飛鳥時代や奈良時代から存在したということでしょうか。

中国的都城の発想は、渡来人から得たものでしょうか。

もちろん渡来人による伝聞もあるでしょうが、中国王朝と国交が開かれていた時代には、使者が直接現地へ行って目撃してきています。唐長安城をめぐる最新の情報は入手することができず、そのため藤原京は充分な「中国の再現」には至っていませんが、少なから…

天皇の神格化が何度も出てきたが、「神」として民衆に浸透するためには、神話だけではなく「奇跡」も必要だったのではないかと思う。

奇跡というのならば、藤原京などが完成すること自体が奇跡です。また、多くの奇跡が「伝聞」によって形成されるように、伝説や神話の類も奇跡を構成しうるのです。天皇の権威を受けて行われる神殺しなどは、まさにその類のものでしょう。また『日本書紀』を…

天皇の国風諡号は、近代以降の天皇にはないのでしょうか。

国風諡号も漢風諡号も、平安時代には途絶してしまいます。以降の天皇は、居所や所縁の深い場所に因む追号を贈られるのみになってゆきます。近代以降は一代一元の制度のもと、皇位に就いていた元号がそのまま諡として使用されているわけです。

天皇の諡などに正統性・正当性を込めるのは、誰に対して行っているのでしょうか。文字の読めない民衆に対してなら、意味がないと思うのですが。

国風諡号はヤマト言葉で作られているので、もともとの発想としては、必ずしも文字を伴う必要はなかったと思われます(その根源は諱であるか、あるいは宮号など公的な場で用いる号であったのでしょう)。一般民衆が神の名を呼ぶように、恐れ憚りつつ口にする…

天皇称号の利用は、7世紀後半頃中国や新羅でもあったとのことですが、ならばなぜ日本にのみ残存したのでしょうか。 / 日本は、唐に合わせて天皇号を用いたということでしょうか。

当時、日本が律令を制定するとき、儒教の影響がありましたが、その特徴が表れている条文、または影響を及ぼした儒学者は誰でしょうか。

律令は法家思想と儒家思想の融合からなっていますが、法律を支える思想、倫理・道徳自体は儒教のものです。よって、条文のあらゆる点に儒教の発想をみてとれます。位階について定めた官位令、位階や場所、儀式などに応じて服装を定めた衣服令、故人との関係…

壬申の乱と戸籍作成との関係が気になりました。このような個別人身支配が共同体の不満を生じるという現象は、他の地域などにも一般化できるのでしょうか。

古代の日韓関係の通史についてレポートを書いているのですが、日本が当時朝鮮の諸国に対して持っていたイメージの示されている史資料はありませんか。

史料というのであれば、やはり『日本書紀』が明確です。百済関係の文献も引用されており、研究が進んでいます。岩波書店の日本古典文学大系や小学館の新編日本古典文学全集など、注釈書も充実しています。ただし分量が多いので、何か朝鮮半島との関係を研究…

レポートについてなのですが、縄文時代頃の死生観に興味を持っていたので、死生観・宗教観からみた通史ということでも大丈夫でしょうか。

大丈夫です。これまで他の質問にも答えてきたように、問題意識を明確に書く、古代のなかでなぜ死生観、宗教観をテーマにする必要があるのか、その正当性をしっかり述べることが大事です。

レポートのなかに、「授業を踏まえて書く」ということが、どうしたらいいか分からなかった。

何度か説明しましたが、古代の事例を扱う限り、講義で触れた内容は必ず絡んでくる。そのとき、授業でどのような説明の仕方をしていたかがきちんと踏まえて書かれているかどうか、ということです。歴史に対するものの見方、例えば東アジアの視点でみてゆくと…

東北の蝦夷経略について、7世紀は日本海側、8世紀は太平洋側と習いました。斉明天皇の頃に、もう太平洋側への進出がなされていたのでしょうか。

例えば、仙台市の郡山遺跡穵期官衙施設です。時代としては7世紀半ばから末年の施設で、すなわち阿倍比羅夫の東北経略とほぼ同時期ということになります。規模的には律令制下の郡衙に近いものですが、後の陸奥国府の前身のようなもので、当時のヤマト王権に…

「蛮族」を従わせている構図を作るのは、中国皇帝に示すためだったのですね。日本国内を支配している方が、やはりイメージがよかったのでしょうか。

中国的な皇帝は、四方に北狄・東夷・南蛮・西戎の異民族を抱え、これを徳治によって文明化してゆく建前を持っていました。いいかえれば、蛮族を従えている者こそが皇帝だったのです。倭は、中国や朝鮮諸国に対してそうした建前を作り出すため、蝦夷や隼人と…

いきなり律令体制を敷かれたら、やはり反発は必至だろうと思います。そんなにも無理矢理に中国的体制を採る必要があったのでしょうか。 / 中国の模倣が多いですが、日本オリジナルの法などはなかったのですか。

当時の国際情勢のなかで、中国化しなければ諸国との競合のなかで置いてゆかれてしまう、との危機感が強かったものと思われます。その点、ある意味では、現在よりもよほど朝鮮諸国、中国と密接に結びついた政治意識のなかで、王朝が経営されていたものと思わ…

庚午年籍が永久保存とありましたが、なぜ保存されたのでしょうか。結婚したら姓は変わるし、死んだらいなくなりますよね…。 / 多くの資料を、どこにどうやって保管したのでしょう。

律令の規定では、戸籍は諸国において3部作成され、それぞれ当国、民部省、中務省に保管されました。これらの官司が整備されていなかった天智朝段階で、どこに保管されていたかは分かりませんが、恐らくは近江朝廷のどこかに管理されていたのでしょう。永久…

白村江の戦いによって百済の人々が亡命してきたとのことですが、現在でも百済系と自負する人々はいるのでしょうか。 / 百済遺民の亡命によって、倭国が政治面で得たものはあったのでしょうか。 / 百済との合体、という学説の根拠はどこにあるのでしょうか。

百済王家の子孫を標榜する人々がいます。日本に人質として送られてきていた百済義慈王の子息のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、日本に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。…

白村江の戦いのあと、結局唐は攻めてきませんでしたが、攻めて来ていたら、倭国は勝てたのでしょうか。

まったく見当がつきませんが、新羅との連合軍で攻めてくる形となれば、かなり危機的であったと思います。朝鮮半島に近い九州や中国地方、北陸地方などに拠点が作られれば、長期にわたる戦闘になった可能性があります。当時の政府が実際に「リアルな」危機感…

国内統一のために、他国へ出兵するという話が出てくるのはなぜなのでしょう。個人的には、国内に抵抗勢力があるにもかかわらず、海外に大量の兵を送ってしまうのは怖ろしいと思うのですが。

一般的な説明の仕方としては、外敵の存在を強調することで国内の分裂をまとめる、ということです。明治の征韓論もしかりですが、ナチスのヘルマン・ゲーリングなどは、「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ…

蘇我氏の親中国政策から中大兄の親百済政策への転換が気になりました。乙巳の変と関係があるのでしょうか。

蘇我氏は渡来系氏族を束ねている立場ですので、親百済的でなかったというわけではありません。実際、蘇我氏の建立した飛鳥寺は、百済の王興寺との共通点が多く、実際に百済からの技術者が渡来して造営したものと想定されています。よって問題は、なぜ斉明王…

大化改新のとき、なぜ皇極天皇は軽皇子へ譲位したのでしょうか。皇極は、蘇我氏側ではないと思うのですが。

乙巳の変ののちは、大王位継承をめぐってやや悶着のあったらしいことが、『書紀』に語られています。皇極は当初、位を中大兄に譲ろうとしますが、「年長の有資格者として古人大兄・軽皇子がいる」との鎌足の助言を受けた中大兄は、これを辞退します。古人大…

蘇我入鹿は、中大兄の父田村皇子=舒明を支持していたのに、なぜ中大兄に殺されることになったのでしょうか。

講義でもお話ししましたが、蘇我氏はほぼ山背大兄を後援しており、田村皇子とは政治的に対立していました。そのなかで蝦夷が、朝廷を構成する他の派閥との協調を保つべく、田村派に妥協したのです。その結果蘇我氏内に紛争が生じたため、入鹿は山背大兄を排…

聖徳太子という伝説的存在を創り出すために、なぜ厩戸王が選ばれたのでしょうか。 / 聖徳太子がこれほどまでに神話化されてきたのはなぜでしょうか。

蘇我馬子と同時代の王族で、推古大王と密接な関係にあり、政治を主導する説得力のあったひとが、厩戸王以外にいなかったのでしょう。また彼は、法隆寺をはじめとして、王族としては初めて本格的な崇仏を行っていましたので、仏教界においてかなり早くから尊…

先生は、NHKの『ヒストリア』について、「個人の感想で歴史をみても仕方ない」と仰っていましたが、私も「確かにそうだ」と考え方が変わりました。私は世界史選択なので、歴史も長く地域も広く、「個人の気持ち」などあまり考えてきませんでした。しかし日本史には、「深く狭く、人物に照明を当てすぎ」おとの偏見があったのです。

「個人の感想で歴史をみても仕方ない」という発言をしましたっけ。記憶にないのですが、誤解を与えるような説明をしたのでしょうね。『ヒストリア』に関して批判したのは、『日本書紀』の記述とそれから考察される「史実」、里中満智子さんのマンガとが、ご…

博物館レポートは、美術館でもよいでしょうか。

美術館でも構いませんが、歴史学のレポートですので、歴史的視点で書いてくださいね。

北條先生の日本史特講と日本史概説を両方受講しているのですが、博物館レポートを2つ出すのが大変なので、2000字以上1本書いて提出、というのではダメでしょうか。

別の授業ですので、1本では困ります。ただし、1つの展示を別々の観点からみて、2つのレポートにするのなら「アリ」でしょうか。

飛鳥〜奈良時代は、他の時代と比べて女帝が多いと思います。何か理由があるのでしょうか。

以前は女帝の問題をきちんと扱っていたのですが、平安時代までゆくために割愛してしまいました。指摘のとおりで、7〜8世紀は女帝が集中しています。かつては、本命の男性天皇が即位するまでの「中継ぎ」論が一般的でしたが、推古朝は蘇我馬子らによる中国…

古韓音はなぜ残ったのでしょうか。

古韓音は、具体的には、ガ(奇・宜)、キ甲(支)、ケ乙(挙・希・居)、ソ甲(巷・嗽)・タ(侈)・チ(至)・ヌ(蕤)・ヘ甲(俾)・マ(明)・ヤ(移)・ヨ乙(已)・ロ乙(里)などの音です。渡来人の関与したとみられる推古朝遺文や、『書紀』のなかで…