日本史特講(12春)

中国人の歴史観を表す言葉としての「現在主義」ですが、もし、ある人が先祖から伝えられた歴史を次の代に伝えられないまま亡くなったならば、この歴史は消えてしまいますが、それはもはや「事実」ではなくなってしまうのですか?

そうですね、それゆえに中国では、家を継げずに死んでしまう夭折者を最大の不孝者としたのです。彼らは非業の死者であるわけですが、孝の概念から一族の宗廟では祭祀を受けられませんでした。ゆえに(観念的世界においては)悪霊となるしかなく、修祓など種…

我々の用いる私的言語・私秘的言語は、実証史学の枠組みからは抜け落ちてしまうものと思います。そこには「徴候」的要素がみられる、と指摘した知人がいたのですが、もし歴史学がそのようなものについて何かしらの記述をしようと試みた場合、どのような方法があるでしょうか。

カルロ・ギンズブルグの邦訳書に、『神話・寓意・徴候』(せりか書房、1988年)があり、そのなかに「徴候」という興味深い論文が収められています。ギンズブルグはそのなかで、何でもないような日常の記録に「徴候」を認め、重大な全体像を構築してゆく歴史…

古代中国において、史官は権力者の強制に抵抗して直書を行ったとのことですが、権力者の側はどのように感じ、どう行動したのでしょうか。

もちろん、権力者の側はその正当性を確立するため、史官側の直書に対し厳罰をもって応じることも少なくありませんでした。『春秋左氏伝』には史官=卜官による諫言が多く載せられていますが、それに従わなかった君主は多く滅びに至っています。こうした記載…

中国古代にみられる諫言は、後代の『史記』をはじめとする史書などに、少しずつ形を変えながら残っていったということでしょうか。

史官たちは歴代王朝や諸侯に奉仕しつつ、しかしその倫理的核は天や祖先に置いている。自らの仕える君主が天命に沿っていればその意に従うが、それに違背すれば躊躇なく筆誅を加える。それが、史官のひとつの理想型であるわけです。歴代の正史は一応その立場…

上野千鶴子さんの態度について、よく理解することができませんでした。現在の闘争というのは、どういうことなのでしょうか。 / アウシュヴィッツや従軍慰安婦問題などの過去の存在や犠牲は、上野さん的な見方では、過去のものとして扱えなくなるのでしょうか。現在においては、過去に犠牲とされたものは犠牲とは受け取られないのですか?

上野千鶴子さんらの標榜する構築主義を徹底するとすれば、私たちの認識する〈過去〉は、あくまで現在の私たちが現在の視点・価値観で構築する〈つくりものとしての過去〉に過ぎなくなってしまいます。すなわち、テクストと過去との繋がりはなくなり、そうし…

ミクロストーリアはニュー・ヒストリーの一部なんでしょうか。そもそも、ニュー・ヒストリーって何ですか。

ニュー・ヒストリーは文字どおり「新しい歴史学」で、アナール学派が学界に与えた刺激に基づいて、伝統的な政治史・国家史・人物史を批判するなかで生まれてきた諸研究のことです。日本の文脈では、「社会史」といいかえてよいかも知れません。一般に「ニュ…

鹿島さんの〈物語り論的歴史理解〉は、方法を誤ると修正主義的になってしまうのではないでしょうか。 / 鹿島さんの意見は、自分のなかで考え方のモデルとなるパターンを増やすことに、歴史を学ぶ意義があると理解してよろしいでしょうか。

私の説明の仕方が悪かったですね。まず、人間は社会のうちで先人の物語を授受し、それを範型として生きているというのは、人間社会のなかで物語/物語りが果たしている役割です。しかし、その〈先人の物語り〉を提供する歴史的知識は、多く権力によって歪め…

ピーター・ゲイの話で、「歪みを武器とする」とのことですが、「彼しかなしえない洞察」には意義や重要性があるのでしょうか。

意義はある、とすべきでしょうね。もっと正確ないいかたをすると、「意義」や「重要性」は支配的価値観によって付与されるものなので、逆に歴史の多様性を阻害するものとなってしまうのです。一方では「個別分散化」との批判を受けることになるでしょうが、…

スピーゲルの提言について、言語が過去/現在を連続させているとするなら、外国語や古語を日本語訳したり現代語訳したりする作業とは何なのでしょう。言語の使用域を無視することになってしまうのでしょうか。

確かに「現代語訳」は一種の翻訳作業ですから、時空を飛び越えて、過去を現在に従属させてしまう方法以外の何ものでもありません。ゆえに伝統的歴史学においても、知識の社会的還元の便法とのみ捉え、研究の方法としては肯定していないと思います。しかし、…

言語論的転回は、伝統的歴史学の叙述などをあれこれ批判していますが、結局のところ歴史学はどうあるべきと考えているのですか?批判ばかりで、それではどのようにすればよいかという考えを提示していないと思えるのですが…。

そんなことはありません。講義でも度々紹介しているのですが、私の説明の仕方が悪いのでしょうね。例えば今回採り上げたラカプラなどは、実証史学の史料批判に対して、文学批評の方法論を用い、多様な解釈を示すことで対案を示しています。それは「実証」さ…

ホワイトの「歴史叙述における説明の様式」の部分で、論法の様式に掲げられているうち、機械論的・有機体論的・コンテクスト主義的の3つの意味が分かりません。

一応は授業中に説明したはずですが、もう一度繰り返しておきます。「機械論」は、世界を機械と同様とみて、そこに発生する事象をすべて力学的に理解可能であるとする見方です。「有機体論」はより複雑で、例えば生態系のように、様々な要素が相互に関係しあ…

歴史の物語りに関して思ったのは、その事象を観測する視点についてです。例でアリスタルコスが挙がっていましたが、現在からみた彼の考えと、当時の有象無象のひとつに過ぎなかった彼の考えとは、違うものなのでしょうか。

アリスタルコスの思想それ自体が言語によって構成されている以上、違うものか同じものかという問いに答えるのは困難です。明言できるのは、例に挙げたようにコペルニクス的転回を経験しなければ、我々はアリスタルコスの思想を現在と同様には読むことができ…

言語論的転回によって素朴実証主義は否定されたとありましたが、素朴ではない実証主義が存在するのでしょうか?

素朴実証主義は、当時の議論の文脈のなかで、単純な実在論への批判的呼称として使われたものでした。それに対して歴史学者は、我々は実証主義者ではあっても「素朴」ではない、批判されているような単純な認識論を持つものは歴史学者にはいない、と反論した…

言語による世界の分節、動物/人間の分節の仕方の違いですが、例えば嬉しさや悲しさといった感情は、身体的記憶として残るものなのでしょうか。

難しい問題ですね。確かに、動物には嬉しい/悲しいといった感情があり、それは記憶として残るはずです。しかしそれは、人間と同じように分節された思い出ではない。嬉しさの内容、悲しさの内容については、言葉によって意味づけされたそれより単純で、バリ…

言語によって世界が形成されると考えてみると、その国々や民族によって言語が異なるという問題に引っかかってしまう。歴史を語ろうとするとき、その言語ごとに違う世界観が生じることになりはしないか。 / 言語の種類の相違も、総体的に歴史に作用するのですか。つまり、「フランス人と日本人とで享受する世界は違う→歴史が変わる」ということですか。 / ある程度言語を習得できた人がなかなか英語等を自分のものに出来ないのも、言語によって既に世界が作られていて、英語→日本語→認識という手順を踏んでいるためなのでしょうか? / フ

そうです。使用する言語が違うと、世界は違うものになってしまうのですね。これを説明するうえでよく用いられるのが、「虹の色数」に関する話です。日本では虹の数は七色であり、普通我々は虹を七色のものとして認識しています。しかし言語体系の異なるある…

言語についての話で、ウィトゲンシュタインの言語ゲームのことを思い出した。人間は言葉によって世界を認識するが、その言語を定義づけるためのルールも必要だ。そのルールは言語で説明できるものではなく、個人の認識に基づくもので、結局認識が先立つのではないか、と思ったが分からなくなりました…。

そうですね、先後関係で考えると分からなくなりますね。だいたい、言語を用いない認識の状態は、言語を使用できる状況にある我々では、なかなか想像することが難しい。言語を単に日本語、英語、中国語…といった分節言語で考えるのではなく、ランガージュ(言…

今回の質問は、私の方から回答をしない方がよいものばかりでした。しかし、受講者で共有しておくべき意見が多くありましたので、ここに掲示しておきます。歴史の物語り論、実証主義の意味についても質問がありましたが、これは講義のなかで解説してゆきます。

○歴史学・歴史理論は、「歴史の繰り返し」を克服するためのものだろうか。「歴史の繰り返し」は、多元主義的論理によって本当に克服しうるものか。多元主義の立場に立つとして、では「決断」はいつ下すのか。「決断」を下すという行為は、やや「暴力的な立場…