日本史特講:古代史 II(07秋)
これは、あらゆるものの根源である太極を象っているのですね。つまり、易のプロセスは単に数字を導き出す動作ではなく、手の中に太極・天・地・人、すなわち宇宙そのものを再現し、その理法を見極めようとする宗教的実践なのです。ゆえに、本当は、ぜい竹を…
六世紀末の飛鳥寺建設において、仏教建築のエキスパートとして瓦博士等が渡来してきていたことは確かです。『書紀』はそれ以前の五経博士等についても、倭の要請(命令?)に従うような形で百済が技術者・知識人を送ってきたように書いていますが、百済側と…
『周易』繋辞伝や『正義』『本義』に書かれたぜい法では、心身を清浄にして易に臨むべきことが求められています。しかし、願った内容を実現してもらうわけではないので、問う内容を常に頭に思い浮かべておく必要はないでしょう。自分を天地人と一体化させ、…
例えば、戦国末の「包山楚簡」「望山楚簡」からは、亀トや易など数種の占いを使い分けるト占集団が、貴族に奉仕して病気治療等に当たっていたことが分かっています。また、前漢の『史記』日者列伝には、都市のなかに易者が店を開く場所のあったことが確認さ…
竹は、中国では、植物のなかでも特別な存在と考えられていました。類書『芸文類聚』では、「樹木」というカテゴリーのなかには入れられず、「竹」として独立して立項されています。形態的にも根を伸ばすことで個体を増やしてゆくという特殊性があり、100年ほ…
恐らくは、早くから首皇子へ嫁がせるために育てられているので、キサキとして振る舞うに相応しい教育は施されていたでしょう。『楽毅論』と『杜家』のみがそれを知るよすがですが、内容的なことまで意味を持つとするのは穿ちすぎかも知れません。ただし前者…
これは書風を練習するための書物であり、また書簡の用例集でもあるわけですが、後者としては中国の地方の下級官人層、小地主層の生活世界を反映したものなので、光明皇后が書写し練習するのはやや不自然な気もします。『万葉集』は、和歌を手紙がわりに用い…
恐らくは仲麻呂が起草に関わっている詔のなかで、橘奈良麻呂一派がおとしめられたり、兄豊成が批判されたりということはありました。奈良麻呂の場合には、そのクーデターの抑止を代々の先帝や神仏のお陰としていますから、逆にそうした宗教的権威をもって、…
まったく対照的な感想の付加された質問が来ましたね。古代の大王家・天皇家に入り、妃になるということは、現代のそれとはやや感覚が異なるようです。中国王朝の后妃も出身氏族の名前で呼ばれていますし、日本でもそうした〈家との繋がり〉が強かった(その…
大炊王は舎人親王の息子で天武天皇の孫ではありましたが、〈王〉であって〈親王〉ではなく、皇位継承者が草壁皇子の直系子孫へ限定されてゆくなか、彼が天皇になるためには、仲麻呂のような権力者に近づくしかなかったのでしょう。天皇はともかく、政治の中…
歴史学的にも考古学的にもそういった存在は確認できませんが、例えば祭祀の際に唱えられる祭文のようなもの、舞踊歌、神話語りなどは存在したでしょう。しかし、そういったものは奈良時代的感覚における文学、すなわち漢字で書かれた、きちんとした形式をも…
史料8に、「不孝・不恭...の者があれば、陸奥国桃生・出羽国雄勝に配置して...」とありますが、実際に配置された後はどのような処置がとられるのでしょう。また、なぜ上のような場所が選ばれたのでしょうか。
蝦夷を仮想敵とした辺境警備に就かせ、王権を守護するなかで、儒教的倫理を身体化させるのが目的だったでしょう。中国でも、遊牧民との緩衝地帯に罪人を就かせたり、反体制的な人物を左遷したりといった措置が採用されています。
〈六〉という年数が、律令国家の基本サイクルのひとつであることは確かです。戸籍も六年に一度作られますし、班田も六年ごとに行われる規定でした。それでは六に特別な意味付けがあったのかというと、これはよく分かりません。ただ、天・地・東・西・南・北…
古代日本の文書様式は唐令を継承しているので、闕字もちゃんと公式令(38闕字条)に規定されていました。それによると闕字の対象は、大社(ここでは伊勢神宮か)・陵号(歴代天皇の陵墓)・乗輿・車駕(ともに天皇の乗り物)・詔書・勅旨・明詔(詔旨の美称…
起源はいつなのか、というのは勉強不足で分かりませんが、諱とは正確には本名のことで、中国では目下の者が目上の者の本名を呼ぶのは礼に悖る行為とされていました。そもそも名とは個を特定するものなので、呪術などに用いられれば大変危険であり、無闇に明…
これは、中国では漢字という文字とその意味とが一定に結びついていますが、日本では漢字とやまと言葉との間に明らかな断絶があるためでしょう。つまり、日本では「ふひと」というやまと言葉のレベルで避諱が成り立っているわけですが、それは訓を用いて「史…
避諱にしても臣籍降下にしても政策ですから、天皇を含めた朝廷の総意として決定されたことに違いはありません。その細かい策定には関係機関の官僚たちも動いていたはずです。最終的な決定に誰の意向がより強く働いたかは、時代によって違うと思いますが(天…
そんなことはなかったと思います。皇位の継承系統を確立して政治的混乱を防ぎたいと考えていたのは、まずは壬申の乱を引き起こさざるをえなかった天武であり、その意向を受け継いだ持統であり、また支配者層の総意でもあったでしょう。継承者を天武・持統の…
藤原氏には、天皇家にとって代わるという発想はなかったようですね。なぜかといわれると困りますが、律令国家の日本的特徴として〈天皇制〉なるものを選択し、自らそれを順守し利益を得る方法を良としたのでしょう。天皇制とは、究極的にいうと、(まっとう…
笹山晴生『古代国家と軍隊』(中公新書、のち講談社学術文庫)、同「中衛府の研究」(同『日本古代衛府制度の研究』東京大学出版会)が基本文献です。
武智麻呂は、近江国守として地方政治を経験し、民衆が現実にどのような行動をとるか具に観察してきました。例えば、このとき上奏して認められた寺院合併令では、国家の財政支援を受けた豪族たちがその利益を目的に造寺に明け暮れ、結果実態を伴わない寺院が…
例えば、長屋王の立案したという百万町歩の開墾計画に、その限界が表れていると考えられます。当時、平城京建設の負担もあり、重い課役に耐えかねた農民たちの浮浪、逃亡が社会問題化していました。一方で農業生産の技術は向上しており、人口は増えてきてい…