日本史特講:古代史(14春)

現行本『捜神記』が宋代に編集された際に、原本から抜かれた説話があるとのことですが、どうしてそのようなことが行われたのですか。

ちょっと説明がうまく伝わっていなかったようです。恐らく宋代には『捜神記』の原本的構成が散佚してしまっており、『法苑珠林』『初学記』その他の類書に引用されている逸文、その他『捜神記』に収録されていたと伝わるものを収集して、再構成したのが現行…

キリスト教と中国思想とを比較すると、人と自然との関係性についてまったく違う考え方をしているように感じます。キリスト教では、自然と人間との間には序列があり、人は特別なものという位置づけですが、中国では自然の一環であるという位置づけをしています。この違いは何が原因で生じるのでしょうか。

中国でも、各民族・各地域、時代や社会情況によってもさまざまな相違があります。それは、キリスト教文化においても同様なのです。まず、自然との関係でキリスト教批判をする人々は、一様に「創世記」の一節を口にしますが、全時代・全地域のヨーロッパ文化…

レポートに関して、他学科なのですが、専攻とまったく関係ないテーマでも大丈夫でしょうか。

まったく構いません。ちなみに、先日とある研究会でメルヴィルの『バートルビー』に関する報告を聞き、これはフレイザーの『金枝篇』が論じている〈王殺し〉で読み解ける内容だな、と思いました。近代文学を、神話をツールとして読み解くという方法もありか…

レポートに関してですが、参考資料としてインターネット上のものを用いてもいいでしょうか。

インターネット上の資料は玉石混淆です。自分で情報ソースを批判し、正確なものと認められるならば使用しても構いません。参考文献のひとつですので、どのようなサイトを対象としたのかも、当然評価対象となります。

レポート用の神話を中東由来のものにしようと思うのですが、原文に当たる必要はあるでしょうか。

あなた自身に原文を扱う能力が身に付いているのならば、挑戦してほしいと思います。神話を歴史学的に扱おうとすれば、やはり原文で読まなければ埒が開きません。ただし、そうすることが過度な負担になるというのなら、とりあえずは邦訳のものを対象としても…

レポートに関する質問なのですが、グノーシス主義など、宗教の黎明期に生まれた聖書解釈、思想や学説なども「神話」の対象にすることはできますか?

構いません。ただし、考察の際に、神話その他の語句は厳密に注意して使用してください。

茅の輪を付けるというのは、具体的にどうするのでしょうか。また、「腰の上」には、何か意味があるのでしょうか。

古代の習俗の実態については不明の点が多いですが、現状から類推すれば、やはり腰に巻くのではないかと思われます。腰が人体の「要」であるという考え方は中国思想に見受けられ、4世紀頃から確認できる「丹田」の概念もこれに由来するのかもしれません(ち…

蘇民将来譚は圧倒的ですが、いずれにしても、神は残酷というイメージがあります。神は優しいというイメージは、なぜ定着してしまったのでしょうか。

上の話と連結していえば、「神と人間は交感可能」という理解が広まったためであり、それは自然環境などに優越しうるという人間の傲慢さが招いた結果でしょう。逆説的ないい方になりますが、ヒト至上主義の展開に伴って神は優しくなったのです。

蘇民将来譚で、武塔神を歓待した兄やその妻まで殺されてしまうというのは、納得がゆきませんでした。他の話との差異などが、ここには何かあるのでしょうか。 / 蘇民将来の信仰が現在まで続いているのは、自分の生命より家の存続を重視した古代の考えに基づいているのでしょうか。

自分の生命より家を優先する、というのは面白い解釈ですね。しかしここでは、やはり歴陽水没譚と同様に、災害=ここでは疫病の大規模性、無差別性を標榜しているものと考えられます。前近代、災害や疫病などは神霊によってもたらされるとの発想がありました…

異常出生譚の事例として母親の右脇から生まれたシャカの話をされていましたが、そもそもクシャトリヤはすべて右脇から生まれるのであって、釈迦の異常さを表現しているのではないと思います。それを補うのが霊夢なのではありませんか?

確かに、『リグ・ヴェーダ』のプルシャ讃歌では、世界の根源である原人プルシャが神々に供犠された際、切り分けられたその両腕からクシャトリヤが生まれたことになっています。しかしこれは階層としてのクシャトリヤの起源を語る神話であって、個々の貴族・…

禁足地というものが全国に分布していますが、やはりこれも「見るなの禁」のような神話伝承に基づくのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。禁足地として最も典型的なのは神体山ですが、その成立過程をみますと、面白いことが分かります。まず縄文時代において、人々はかなりの高山へも狩猟のために入っていたことが確認されます。しかし弥生時代になると、200メートル…

振り返りのタブーが出てくる話では、主人公はなぜ振り返ってしまうのでしょうか。

最初に扱った高誘注型歴陽水没譚のように、タブーが守られる話もあります。しかし確かに、多くは侵犯されてしまう。それはタブー自体が、侵犯に対する罰への恐怖によって維持されるからでしょう。いかなる罰が下るのかを、具体的に示さなければならないとい…

なぜ「見るなの禁」は、世界各地の神話に確認されるのでしょうか(伝播なのでしょうか、同時多発的なものでしょうか)。また、なぜ「聴く」ではなく「見る」なのでしょう。 / 「見るなの禁」を破ると、なぜ人間以外のものに変身してしまうのでしょうか(神話や伝承、宗教において、変身は転生などとともに重要なテーマですね)。  / 振り返ったことで変身するには桑や塩などの聖なるものですが、なぜタブーを侵犯したのに聖性が付与されるのでしょうか。

以前に論文で書いたことがありますが、神話論の回でもお話ししたとおり、〈見る〉ことは世界を分節し秩序化することを意味します。量子力学ではありませんが、〈見る〉ことを通して、それまでマージナルな情況にあることを許されていた曖昧なものが、どちら…

水が死者の世界と通じているというお話でしたが、そういう場所を特別視するのはどうしてですか? / 水と死者との関係という点で、三途の川も水です。あの世とこの世の境界に水があるというのも、やはりそうした思想に基づいているのでしょうか。

このあたりは、解釈論にならざるをえませんが、ぼくは水が世界の根源であるとの発想が関わっていると思います。中国江南地方には、戦国時代の段階で、天地が開闢する以前に世界は水に満たされていた、との神話的思考が存在したことが確認されています。あら…

「津浪てんでんこ」という言葉は、共同体の信頼関係により成り立つものといいますが、いつから存在したのでしょうか?

「津浪てんでんこ」というスローガン自体がそれとして成立し、普及するのは、三陸津浪の被害を検証し減災・防災について描いた山下文男の著作活動以降なので、1990年以降です。「津浪のときはてんでんこ」という発想は、すでに三陸の人々の行動規範のなかに…

高誘注型の物語と『呂氏春秋』の物語を比べてみると、後者の伊尹の母親は逃げるときに近隣に避難を呼びかけています。前者の老婆にもその時間はあったと思うのですが、記述には見受けられませんでした。誰かに話しても聞き入れられなかったということでしょうか?

この質問であらためて気がつきましたが、前回お話しした危険感受性・避難瞬発力の問題からいえば、「近隣に避難を呼びかける」要素が付加されているものの方が、成立が新しいのではないかと思います。とにかく逃げなければならない、そうでなければ助からな…

高誘注型をはじめとする洪水伝承が、『淮南子』以降に書承の形で伝播していったことは想像しやすいですが、同種の話型が村落などの地域社会のなかで、いったいどの程度人口に膾炙していたのか疑問に思いました。ある話型が教訓たりうるためには、共同体で口承される必要があるのではありませんか?

これから追々お話ししてゆくことになると思いますが、歴陽周辺には、高誘注型水没譚のヴァリアントが極めて多く残っており、そのなかには、どうも書承のみの変化によらないものも存在しています。文体がまったく異なっていたり、何らかのランドマークと結び…

古代の神聖な芸能が娯楽になってしまうのは、どのようなプロセスを経た結果なのだろうか。 / 網野善彦氏の著作から、神に仕えた人々は神の権威の低下に従って卑賤視された、と学びました。だとしたら、門付芸人が卑賤視され、神職がそれを免れた理由が分かりません。彼らが神社という「土地」に基づいた権威だからでしょうか?

いわゆる神の零落の問題は、柳田にしろ、ハイネの『流刑の神々』などに基づいて構想されたものです。古代から現代にかけて、果たして神の零落、世俗化の問題として、宗教史を単線的に語ることができるかは、現在では疑問視されています(すなわち、地域によ…

水を神聖なものとする考え方についてですが、平安時代の庭園に水辺が作られるのも同様の思想に基づくのでしょうか?

奈良時代の貴族邸宅における庭園遺構には、古墳時代の水の祭祀場に用いられたのと同じ技術が使用されており、また、そうした場で行われた宴などでも、神仙思想に基づく漢詩の詠まれたことが判明しています。長屋王の別邸作宝楼などは、『懐風藻』に神仙境に…

洪水を避ける呪術が逆に水災を呼び寄せるものと受けとめられたとのことですが、授業で触れたような占い、呪いを生業にする人々がいたにもかかわらず、なぜこのような自体が起きたのでしょうか。

呪術や占いに対するものの考え方、知識、技術などは、時代や社会との関係のなかで、やはり長い時間をかけて変化してゆくものです。例えばやはり『周礼』の段階から記載があり、日本まで受け継がれてゆく追儺という祭儀があります。これは、年末に宮廷におい…

中澤先生の特講でケガレを扱った際に、六畜を殺すことは穢れの対象になるといったことを聞きました。中国での供犠は牛・羊・豚が主要とのことでしたが、日本には影響しなかったのでしょうか。

例えば、中国王朝で行われた孔子を祀る祭儀である釈奠は、8世紀を通じて日本での受容・整備が進みましたが、もともとはやはり三牲=牛・羊・豚を供えるものでした。しかしまず、この動物犠牲のそれぞれが、牧畜を行わない日本では一般的ではない。そこで、…

鶏人についてですが、祭祀関係の官職としては、身分は高い方だったのでしょうか、低い方だったのでしょうか。

ヨーロッパの動物供犠では、捧げられるのは豚や山羊なのですが、鶏は主にアジアで用いられているのですか。地域によって、捧げられる動物も違ってくるのでしょうか。

供犠される動物の種類は、もちろん地域、時代によって異なっています。中国の場合では、牛・羊・豚は家畜であり、牧畜文化において、人の作ったものを神に捧げるという思想が根底にあるものと思います。ぼくが調査に参加した雲南省の少数民族納西族において…

血が災いを退ける効力があるとのことでしたが、日本では月経などのようにケガレのイメージが強いです。これは、中国文化と日本文化の相違なのでしょうか、それとも時間的な相違ですか?

血のケガレとしての性格が強まり、制度化してゆくのは、日本でも平安時代以降のことです。例えば『播磨国風土記』では、鹿の血を水田に注ぐことで、苗が一夜のうちに生育するという伝承が出てきます。現在では神社も血を嫌うものとされていますが、かつては…

日蝕や月蝕も天災という扱いになっていますが、直接的な被害はないのに、なぜそのように捉えられているのでしょうか。

太陽や月を神格化している地域は多いですが、中国の陰陽五行説では、それぞれ陰陽の気の起源、集合というころで、太陽/太陰と呼びます。それが「蝕」されるわけですから、これは世界を構成している陰陽のバランスが崩れ、もろもろの災異を引き起こす原因と…

予兆が悪戯であったという点に違和感があるのですが、それも天命によるものだと解釈するのでしょうか。

天命によるかよらないかは『論衡』の解釈であって、高誘注型の物語に内在化している論理ではありません。予兆が悪戯であるのは、この物語が災害警告的であるとするならば、その予兆の些細さ、いかがわしさを強調するものでしょう。たとえそうであっても、ま…

救われるのは、なぜ老婆でなければならなかったのでしょうか。また、書生は2人ですが、来訪神は単独ではなく複数で現れるのですか。

恐らく、書生が男性として現れているので、陰陽の対応から老婆が設定されているのでしょう。もちろん、神/シャーマンの関係が背景に隠されていることは看過できません(ただしそれは、憑依の役割が女性に固定されているというわけではなく、その逆もありう…

2人の書生は自然もしくは土着の神であり、老婆はシャーマンであったという解釈は成り立ちますか。また、現在の歴陽ではどのような話が伝わっているのでしょう。

次回の講義で触れますが、中国文学の研究史においては、そうした見方が早くからなされています。確かに、神→シャーマンの託宣の問題が、背景に隠されていることは否定できません。しかし、そうした内容が明確に表れてくるのはもっと後世のことであって、成立…

『論語』十二篇「顔淵」によると、司馬牛の「他の人はみな兄弟がいるのに、私だけいない」という発言に対し、子夏が「死生命あり、富貴天に在り、…君子でさえあれば、兄弟のない憂いはないでしょう」と答えています。『論衡』の内容は、少し断章取義的なのではありませんか。

正確には、子夏の回答は、「死ぬことにも生きることにも天命があり、同じく財産の貧富も地位の高低も天命による。君子たる者、自重して礼を失することなく、他者に対して謙遜し礼儀を重んじているならば、世の中の人々すべてが自分の兄弟のようになる。実の…

志怪小説が具体的にどのような話を収めているのか、気になりました。フィクションと実話の度合いが知りたいです。 / 「中国文化史」という講義では、志怪小説はフィクションであるとの説明を受けました。どちらの見解が通説的なのでしょうか。

フィクションという概念自体が非常にデリケートなものなので、これを安易に用いるのは危険だと思います。この講義の前半でソシュールなどの話をしましたが、人間の認識システムを前提にすれば、我々が把握しうるあらゆるものごとがフィクションになってしま…