東京大学:宗教学宗教史学特殊講義(17秋)

異類婚姻譚というと遠野のオシラサマの話を思い出すのですが、これはトランス・スピーシーズ・イマジネーションの視角からすると、少し違和感があるようにも思います。どう解釈すればよいのでしょうか。

『遠野物語』のオシラサマは、原型としては、中国六朝の『捜神記』という志怪小説に出てきます。養蚕と桑、馬の飼育とは中国の文脈のなかで密接に関連しており(恐らく、厩の二階などで蚕を育てることが原因のひとつです)、遠野地方でそれが盛んになるなか…

神話には、自然の有限性が語られていると思います。「持続可能な開発」が今でこそ世界で唱えられていますが、先人の知恵はすでにもっと前の神話の時代から考えられていた、ということでしょうか。

前近代社会の人々が、自然環境を近現代人と同じように有限なものとみ、持続可能な利用を考えていたかというと、必ずしもそうではなかったろうと思います。ただし、過度な利用、無軌道な利用が何らかの破綻を招くという共同体規制は、集団を経験的に縛るもの…

異類婚姻譚について、生まれた子がどちらの種に属するのか、またいわゆる混血の誕生はないのか、といった点が気になりました。

異類/人間のどちらが男性、どちらが女性であっても、例えばトーテム信仰的な視野から語られる場合には、生まれた子は民族集団の祖、すなわち人間である場合は多いと思います(ナーナイの話に出てくる熊の子は、人間の娘が熊に掠われ、熊の集団に入って生ん…

トランス・スピーシーズ・イマジネーションの事例として、植物に関するものは存在しないのでしょうか? / 輪廻で取り上げられるのは動物の場合が多いように思うのですが、植物は輪廻するものとしては想定されていないのでしょうか?

存在します。のちの、「巨樹から生まれしものの神話」で扱うつもりですが、とくに列島社会は、もともと人間を草木の一種であると考えていた形跡があります。ただし輪廻に関しては、もちろん釈迦が樹木神になる物語りもあるのですが、やや注意して扱うべき問…

レヴィ=ストロースのトーテミズムに対する批判や、神話が他地域から伝わっている可能性も考えると、神話や習慣からトランス・スピーシーズ・イマジネーション的な分析をするのは慎重になるべきと思う。

まず、分析対象とする神話が、その地域にどのような形態として存在するのか、生活の基軸に据えられているのか、それとも単に娯楽に過ぎないのか、といった調査や判断が重要です。また後者の場合であっても、それを語り継いでゆく人々の認識のありようを探る…

人間の異類に対する感応能力によって、人間なりの感謝の示し方として祭祀を行うとのことでしたが、その内容は、やはり動物からすると残虐な行為にみえるのではないでしょうか。そうした方向での想像力は働かなかったのですか? / 動物の主神話などは人間のための規範であって、他者への交感の事例としては強引なのではないでしょうか?

授業でもお話ししたと思いますが、例えばイヨマンテにおいては、子熊の精霊を父や母の待つ世界へ送るという建前の理解のほかに、そうした祭儀を残酷と思い、子熊を可哀想だと思う認識とが同居しているのです。そうした感情を示すものが、注意してみてみると…

トンプソン・インディアンの山羊の異類婚姻譚が、人間の狩猟における無軌道な欲望を抑えるものになったということは、葛藤によるストレスの軽減をなす物語システムという意味では、どのように説明されるのか。

紹介した神話においては、「雌を殺すな、子供を殺すな」という点が強調されていますが、これはいいかえれば、「大人の雄は殺してよい」との表明です。また多く前近代社会・民族社会において、捕食と性行為とはアナロジーをもって結びつけられますが、若者に…

熊の義兄、熊となった姉も殺してしまうナーナイの話は、何を教訓とするものか確信が持てませんでした。

紹介した伝承は、物語の筋のほうは、かなり錯綜して複雑になっています。恐らく、話者が他者に語る際に、さまざまに尾ひれや要素の拡大・縮小が行われることで、多様に変化をしたものでしょう。しかし、類似の事例を多く収集してみますと、これが熊と人との…

松島周辺において、縄文の遺跡が東日本大震災の津波の影響を受けなかったことについて、縄文時代の海岸線は現在より内陸部にあって、それが寒冷化とともに海退したということではないのでしょうか?

一般的にはそのとおりです。縄文時代は前期を通じて比較的温暖で、後期からの寒冷化に伴い次第に海退が始まります。しかし松島周辺は、海退とともに地盤沈下が生じ、結果として現在の海岸線は、縄文時代における陸地と海岸との距離をほぼ保っているのです。…

国家という枠組みを超えて移動しようとする移民などは、環境文化のなかではどのように捉えられるのだろうか?

授業でも触れたジェームズ・スコットが言及している、ゾミアの人々などはまさに「国家の枠組みを超えて移動」しています。ぼくも論文を書いたことがあるのですが、例えば後漢の時代から中華王朝に言及されるヤオ族などは、もともと西南地域の四川省や貴州省…

集団が国家となってゆく流れは、移住する民族でもあるのではないでしょうか。そうした場合、国家化に抵抗する手段としての移動は、どのように位置づけられるのでしょうか?

ウィグル、モンゴルなど遊牧民が国家化する場合(遊牧国家)も、やはり移動から定住へというベクトルが働きます。中心となる支配者があり、その支配が及ぶ領域が確定しており、その支配を領域の人民に及ぼす統治機構を持つのが国家ですが、その規模が大きく…

授業と直接関係ないのですが、なぜ先生はヴェジタリアンになったのですか? / 肉食をしないとの判断は、恵まれた社会において初めて成立するのではないでしょうか。人は死体のうえで死体を食べて暮らして、最終的に死体になります。動物として、それが全うではないかと思っています。

授業でもお話ししましたが、ぼくは自分をヴェジタリアンであるとは考えていませんし、その価値観を誰かに強制しようとも思っていません。そもそもの契機は、人類学者レヴィ=ストロースが狂牛病について論評した文章のなかに、「狂牛病は、人間が草食哺乳類…

オリンピック便乗型の資本主義のあり方は、惨事と違ってオリンピック後にオリンピックが地域の歴史となり、場所の要素となったとき、商業施設、スポーツ施設などが将来的に場所化される可能性があると思う。惨事の場合、惨事が歴史となっても商業施設には負のイメージ、地域に無関係のイメージしかないと思います。

少し誤解があるかもしれません。オリンピックによる大規模施設建設が惨事便乗型資本主義に似ているのは、その過程でクリアランスが生じるからです。1964年の東京オリンピックのときにも、江戸期の水の都の記憶を伝えていた河川や運河が暗渠になり、あるいは…

引きこもりなどで身体経験が減少し、インターネットという比較的数学的で無限に近い「空間」で過ごす時間が増加すると、身体を持った存在であるという認識が希薄化してゆくのを感じます。人類全体としても、この方向に進んでいると思うのですが、数十年前と今とで〈体験されている空間〉の認識は変わっているのでしょうか?

そのようなことは、多々あるだろうと思います。少しサブカルチャー的な話題を出しますと、宮崎駿が『もののけ姫』を制作しているとき、若手アニメーターによるアニメート描画作業が、極めて深刻な問題に直面していることを吐露しています。彼がいうには、キ…

有名なサルの芋洗い行動などが、切り結びの方法で説明できるのではないかと感じた。個体の行動が集団へ伝播することと、その行為が世代を超えて継承されてゆくことには大きな隔たりがあるように思えるが、そのように両者を結ぶものがあれば知りたい。

これも生物種、そして群体の性格によって相違がありますが、群体には、大集団のものでも小集団のものでも、親の世代が子の世代へ、食料の採取を教導・訓練してゆく場合があります。生物行動はすべて本能によって決定されているわけではありませんので、群れ…

アフォーダンス理論というのは、もともとどの学問分野で生まれた(語られるようになった)ものなのでしょうか。また、動物の捕食関係に当てはめて考えたとき、食べられる側にも利点があると述べることに、どの程度妥当性があるのでしょうか。

生態学的認識論のジェームズ・ギブソンが起源です。日本では近年、哲学・倫理学の河野哲也氏が、アフォーダンスを環境倫理に援用した研究を広く展開しています。食べられる側にも利があるという云い方は、確かに語彙矛盾のある表現なのですが、生態系全体の…

東アジアからは離れてしまうのですが、水辺にいる女の妖怪について、西洋のウンディーネやセイレーンとの共通性などはあるのでしょうか。

女性と水との関わりは、根本的には、文化=男性/自然=女性の二項対立図式によるもの、と整理されることが多いです。西洋の水の妖女も東洋の水の妖女も、概ね文化=男性を侵害するものである点も共通します(しかしなかには人魚姫のように、男性=文化の枠…

「一切衆生悉皆成仏」について、「草木国土悉有仏性」「山川草木悉有仏性」など幾つかの派生があり、ものによっては戦後の日本的アニミズム論のなかで造語されてきたという話を、どこかで読んだ気がします。本覚論と日本的アニミズム論について、整理していただく回があるのかなと期待しております。

もちろんやります。以前、草木成仏に関する整理を文章として書いたのですが、「一切衆生悉有仏性」というそもそもの『涅槃経』の字句には、実は植物は対象として含まれていない。それが「草木国土悉皆成仏」に変質してゆくのは、極めて列島的な文脈によるも…

鯨や鳥獣が自己の身を犠牲にして我々を救ってくれているという考えは、民衆に何処まで浸透していたのですか。

このような宗教的喧伝は、宗教団体の側が一方的になすだけでは、社会に定着してゆきません。主に実際に殺生を行う猟師・漁師たち、その肉を扱う加工業者や、肉を食べる消費者たち、彼らの持っている負債感との関係のなかで相互構築されてゆくのです。よって…

捕鯨にまつわる負債感の説明では、殺生功徳論と、鯨を菩薩とみなすやり方では大きな隔たりがある。何がそのような違いを生んだのだろうか。

やはり鯨という存在が、人間にとって、自身の身体をも危険にさらす可能性の高い、強力な動物だったからでしょう。仏教の畜生観においても、伝説的神獣である龍や鳳凰などはもちろんのことですが、獅子や象といった強力・強大な動物は、レベルの高いものとし…

生物の殺生=罪の思考回路は、仏教の殺生を忌避する考え方にかなり影響を受けている印象があるが、仏教伝来以前にも、動物を悼む風習はあったのか。普段生きてゆくうえで、それが殺生のうえに成り立っているとは気付きづらく、生きるためには仕方ないという発想になる気がするが、それを罪業と結びつけて鯨祭や供養というリアクションを起こさせるような、きっかけのものはなかったのか。

列島社会でいえば、縄文時代から、狩猟・捕食した動物を儀礼的に埋葬した事例はあります。アニミズム的世界観においては、その動物に宿っている精霊をきちんと儀礼的に待遇すれば、その毛皮を取っても、肉を取っても骨を取っても、それは人間の衣服を脱いで…

負債感は、自然から人間に対する贈与について、人間側が感じるものとすると、贈り物文化に通じるものなのでしょうか?

そうですね、モースやレヴィ=ストロースが注目したように、人間と人間との間に結ばれる贈与交換の関係は、自然環境と人間との関係における転化、もしくは相互構築によって作られてきたものだと思います。以前に書いたことがあるのですが、人間が根源的なと…

日本は、捕鯨には限らず、「伝統」という言葉をあまりに無批判に使用していると感じます。

そうですね、「伝統」があたかも太古の昔から連綿と受け継がれてきているものと、無批判に考える傾向が強い。そうしてそのほとんどが、近代における〈創られた伝統〉である場合が、圧倒的に多いと思います。ぼくは、〈集合的アムネジア〉という言葉を使って…

講義の目的に、「いかに〈共生〉してゆくか考えてゆきたい」とありますが、この目的において、宗教「学」と宗教実践の境目を、どうお考えなのかお伺いしたいです。

私自身は研究者であると同時に僧侶でもあるのですが、常に学問と実践とは一体でありたい、あるいは学問も実践の一表現として理解したい、と考えています。そうすることで初めて、研究が実践に根拠を提供し、あるいはその方向性を監視・矯正すること、逆に実…