歴史学特講(17春)

近代に至って、近世的な諸関係のなかで差別されながらも存立しえた集団は、なぜ引きずり出され解体されることになってしまったのでしょうか。

結論的にいえば、それが近代の特徴ということになるでしょう。中世から近世、そして近代へと至る時代の流れは、公権力の画一性と社会への浸透が徐々に強まってゆく過程と捉えることができます。例えば検地の歴史をみても、それぞれの地域で別々の基準を持ち…

網野善彦は、職能民に対する差別の表出を、移住と集住に関連させて論じていた。そういうものを考えると、「癩身分」の人が放浪するという流れはむしろ、どこかへ集住するための過渡的段階と捉えることができるのではないだろうか。

もちろん、近代における「浮浪癩」の時代は、クリアランスによって行き場を失った病者たちが、落ち着く場所を求めて彷徨した時代ともいえます。ただし、近代は保養所以外に彼らの居場所を設定しなかったので、これを「過渡期」と称するのは間違いでしょう。…

江戸時代、伊勢参詣は旅行としてブームになったと聞いていますが、ハンセン病者は伊勢には行ったのでしょうか?なぜ神社、寺ではなくてお遍路を選んだのでしょうか?

伊勢神宮は、穢れを排除することによって神聖性を保つ伝統的神社の最たるものですから、基本的にハンセン病者は排除していたと思われます(奈良時代の一時期の神仏習合状態を除き、その神域からは、原則として仏教や僧侶も排除していました)。一遍の伝記『…

ハンセン病者への差別は、中世〜近世くらいまでは「仏罰」であるからというイメージがあったのですが、明治以降〜戦前にかけてもそのような理由で差別されていたのでしょうか? / 『娘巡礼記』で「業病」と書かれているのがハンセン病を指すものですか? 当時の人々は、何かしらの業が原因となって病が起きると考えていたのですか?

業病という言葉は、前世の悪業によって、因果応報として被った病、それゆえに通常の医療では治癒不可能なもの、という含意があります。これは、中国の南北朝から隋唐の時代にかけて、仏教が権力からの廃仏に抵抗して作り上げた言説で、当時の仏教を擁護する…

ハンセン病者の集団が、諸藩の運営する癩村などにおいて担っていた活動に、「死」に関わるもののほか、貸宿が含まれているのはなぜでしょうか。

これについては、ぼくもまだ実証的に理解できていません。元禄〜享保期の仙台藩では、ハンセン病者の宿貸しの実態に対し禁止措置が出ていますが、同様のことは列島各地でみられたようです。宮前千雅子氏の研究によれば、加賀藩のいわゆる癩村「物吉」でも確…

ハンセン病者が迫害され、遠回しに死に追いやられていたことは分かったが、ナチスのような障がい者の迫害は、日本ではなかったのだろうか。

ドイツのT4作戦のような組織的虐殺は行われませんでしたが、やはり、徴兵や生産労働に「役に立たない」とレッテルを貼られた障がい者が、社会的抑圧を受けたことは確かです。いわゆる社会的弱者は、社会自体の疲弊によって、最も困難な情況に曝されます。例…

東京オリンピックの際、景観・共同体の解体が起きたといわれましたが、具体的にどのような共同体の解体ですか。ホームレスのような人たちでしょうか。

1964年の東京オリンピックの際には、東京の景観は一変しました。よく知られていることですが、未だ江戸期の面影を残していた縦横無尽の水路、河川がほとんど埋め立てられ、あるいは暗渠になり、買収の必要のなさから、首都高はほぼ河川の流路のうえに建設さ…

小レポートは、やはりマイノリティに関係する博物館でないといけないでしょうか?

そうですねえ、やはりもう最初のガイダンスの際に説明して、それでレポートを提出している人もいますので、今さら変更はできません。しかし、すでに説明したように、どんな史跡や博物館・美術館展示でも、マイノリティーを重視する視線に立って分析すること…

やっぱり遊女が罪の意識を持っていたという事実自体が、変だなと思いました。

ぼくも変だな、と思いますね。彼女たち自信が自発的にそう考えたというより、社会や宗教の仕組みが、彼女たちにそう「考えさせた」というほうが、真実に近いでしょう。遊女たちに自分を罪業深い存在だと認識させるのは、遊廓の経営者らに有利に働くイデオロ…

吉原には花魁のような上流の遊女から最下層のものまでいたと思うのですが、その身分の差が、信仰の深さや自身の立場の認識の差になって表れることはあったのでしょうか。

蛇を食べるという行為について、食べたものを自分の身体に取り込むという発想は前近代にあると思うのですが、蛇が捕食者の邪悪さを助長するといった考え方はなかったのでしょうか? / 現在の猪について考えると、猪はまっすぐしか走れず、蛇を捕まえて食べることができたのか疑問に思います。

確かに、捕食者の力が脆弱だと、かえって食べたものの毒に当てられる、という認識はあったでしょう。今回紹介したガルーダやイノシシの場合は、いずれも天敵的な位置づけをされている動物であったり、神格化されているものなので、立場が逆転するという危惧…

浄閑寺の豕塚ですが、吉原大門で飼われていた白い猪について、白は神聖であるとの考え方はどこから来たのでしょうか。

白色については、さまざまな象徴性があります。まず祥瑞に定められているような白い動物は、概ねアルビノで自然界に存在することが珍しいことから、希少価値で尊ばれたものでしょう。白色が清潔な色というのは普遍的な考え方でしょうが、儒教ではそれが転じ…

近世に猪を飼う習慣は珍しいものだったと思うのですが、どこで捕まえたものだったのでしょうか。

近世のことですから、江戸近郊でも猪を捕ることはできたと思うのですが、白猪、恐らくはアルビノの猪ですので、大変珍しいものであった可能性があります。白猪は祥瑞ですので、吉原の常連である武家や商家から贈られたものかもしれません。

平安時代の白拍子は巫女としての役割も持ち、一種の信仰対象となっていたと聞いたことがあります。そこからどのようにして、近世的な遊女が成立するのでしょうか。 / 身体を売ることでお金を得るというメカニズムは、なぜ江戸時代に入って顕著になったのでしょうか。それまで人身売買はされていなかったのでしょうか。

日本では、律令国家の段階から人身売買が是認されていました。中世の一時期には、公事負担の責任者である百姓の家主が家人を売買することを、幕府が公式に認めていました。しかし、娘が売られてもそれは雑役労働者としてで、いわゆる傾城になるのは、身寄り…

中世〈遊女〉においては、芸能とセットで論じられることが多い印象を受けるが、近世遊女というのは、芸能面を論じられることはあまりないのだろうか。遊女と芸者はどこかで分岐したのか?

吉原にも芸者はいましたが、彼女たちは身体を売買することはなく、歌舞音曲において遊女の接待をサポートするのが役割でした。遊廓という経営体において、そこで働く女性たちにも、社会的分業が進んでいると考えていいでしょう。遊女と芸者は長い間混同され…

非人小屋というと、江戸期の東北飢饉における非人の実働部隊化と非人化した民衆の収容を思い出しますが、江戸のそれとも関係がありそうに感じます。

西洋的性道徳、近代的な家族のあり方は、どのような手法で民間に広められていったのでしょうか。

ジェンダーの話になると、男性よりも女性が取り上げられるのはどうしてなのでしょうか。

それは、まだまだ日本社会が男性優位社会であるからですね。その是正のためには、女性の権利、社会における平等の扱いを求めるような注意喚起を、続けてゆかねばならない。そのために、「女性○○」といったテーマ、スローガンがどうしても増えてしまうことに…

吉原は水にまつわる場所であるが、同じ京都や金沢の花街も河川の側にあったと思う。この配置には、何か意味があるのだろうか。

どうなのでしょうね。あまり軽々なことはいえないのですが、ひとつには花街が置かれるような場所は、まず交通の要衝であったということでしょう。いわゆる非公認花街の岡場所も、当然のことながら、人が往来し宿泊する宿場や街道沿いに出現します。新吉原も…

◎1について。蛇に転生した姥を神として祀る話が出てきますが、災禍をもたらすものをなぜ祭祀しようと思ったのでしょうか。

列島文化における神祇への信仰は非常にプリミティヴで、神は、常に災禍と福慶の双方をもたらす両義性を持っていました。神の求める祭祀を適切に行えば、神は我々を守護し豊かな実りを授けてくれる。しかし適切な祭祀が行われない場合には、天譴とも祟咎とも…

姥ヶ池の伝承では、どのパターンでも娘は殺されてしまいますが、例えばやはり神として信仰されるなど、殺された娘へのケアなどはないのでしょうか。

浅草の姥ヶ池の伝承ではみたことがないのですが、

「水の女」という云い方は、江戸だけでみられるものなのですか?

遊女はおしなべて差別される存在だろうとは思いますが、花魁のようにその知性から尊敬される遊女もいたと思います。私は、こうしたセックスワークの差別には、学の有無もあるような気がしますが、どう思いますか?

女性に対する差別は、例えば鎌倉時代では、女性が家督を相続することもあり、女性の権威は弱くなかった印象がある。『もののけ姫』で出てきたような。「女が元気な村はいい村だ」といった考え方は、女性差別と何か関係があるのだろうか。

女人禁制の寺院やパワースポットなどもありますが、それらも性差別だといえるのでしょうか。また、先生は宗教と性との繋がり、そのなかの差別についてどう思いますか。

女性の社会進出にいって子育てをする余裕がなくなり、少子化に繋がっていると聞いたことがありますが、この両立は難しいでしょうか。

「男は外で働き、女は家庭を守る」という考えは確かに近代化において作られたステレオタイプであるが、旧石器時代からの男女の体質などの条件から、向き不向きがあって生まれてしまったものなので納得できるところもある。

もし租税が米に設定されていなければ、地域それぞれの環境ごとに多様な食文化が根差していたはず、とのお話がありましたが、以前他の先生の講義で、「歴史を学ぶうえで過ぎたことに対し、あのときどうしてこうしなかったのか」と現代の人が思ってはいけない、と話されていました。しかし、現状として、かつてアイヌが直面したような情況が世界各地で繰り返されているとすると、現状はもちろん、過去の人々を批判する気持ちも生まれます。どういった目線で歴史的事実を捉えるべきなのか、分からなくなりました。

アイヌに限らず、多くの少数民族は支配されてきた側だが、支配されなかったら繁栄していたのか?といわれれば、そうでもないような気がした。大きい枠組みに支配されることで、文化の波から守られたのではないかと思う。

男尊女卑の根源となる考え方は、いつ、どこで生まれたのでしょうか。