Sさん・Uさんの報告についての講評

 割り当てが急で間に合わなかったのでしょう、今日はとにかく準備不足でした。実力自体は充分なのですから、ちゃんと期日に間に合うよう頑張ってください。そのうえで、古代史ゼミの人間にはいわずもがなのことですが、他のゼミの人のために書いておきます。まず、本文に施す注について。講義でもいいましたが、字句・用語解説についてはきちんと出典を明記し、字句については『大漢和辞典』『日本国語大辞典』以上のもの、用語については『国史大辞典』以上のものにあたること(どういう分野にどういった事典・辞典があるかについては、初回の講義で配布したプリントにリストアップしてあります。質問がある場合は北條まで)。古典大系や古典全集の頭注を参考にしてもらうのはもちろん構いませんが、それをそのまま引き写していても学問的進歩はありません。また、注釈書の注はあくまで個人の学説に過ぎませんので、それに賛成するのか反対するのか、どちらにしても引用者には理由がなくてはいけません。そこまで考えて利用するようにしてください。それから訓読の仕方ですが、とりあえずは兼右本の読み方を忠実に復原するよう努めてください。そのうえで「この読みは間違っている」と判断できる場合は、それこそ注などで説明を加えるように。史料の引用は、ワープロ打ちしてくる必要はまったくなく、コピーで構いません。
 さて、Sさんの担当部分はまた来週に譲るとして、Uさんの受け持ったところで内容的に面白かったのは、やはり蘇我氏と葛城の関係ですね。なぜ馬子は葛城の地を欲しがったのか。地図で確認すると分かりますが、この地は大和から4〜5世紀頃の外港:紀水門へ抜ける交通の要衝なんですね。つまり、大陸や半島の先進的な文物が、渡来人を介して往来する土地であり、ここを押さえることで強大な富と権力を得ることができる。事実、葛城氏はそのようにして発展し、同地に大王家に匹敵するような古墳、居館、工房、祭祀場などを作りあげました(『書紀』では、雄略天皇によって当時の本宗円大臣が滅ぼされていますが、この点と無関係ではないでしょう)。蘇我氏は葛城氏の出身ということで自己の立場を正当化しますが、渡来系氏族を支配下に置いたり、王族に娘を嫁がせたりと、その政治的発展の仕方も似ています。『書紀』允恭天皇五年七月己丑条によれば、葛城には始祖武内宿禰の墓があったようで、そのことも蘇我が同地を欲しがった理由でしょう(これらの問題については、写真の平林章仁『蘇我氏の実像と葛城氏』〈白水社、1996年〉を参照)。ちなみに、馬子の意志を推古に伝えてくる「阿倍臣摩呂」は、乙巳の変の際にクーデター勢力のフィクサーのひとりとなる、阿倍内麻呂(倉梯麻呂)のことと考えられます。阿倍氏は、大王の食膳を供するのが元来の役割であり、側近に奉仕することから守護の軍を任され丈部などを統括しました。斉明朝に蝦夷鎮圧を担った阿倍比羅夫などはその枝族です。内麻呂も当初は馬子・蝦夷に協力して朝廷を運営していますが、軽皇子(後の孝徳天皇)に娘を嫁がせたこともあって、密かに反蘇我本宗へと立場を変えてゆくものと思われます。
 Uさんは、レジュメの「まとめ」で、兼右にとっても蘇我氏は偉大な存在だったのではないかとまとめています。講義でもいいましたが、中世の仏教界では、仏法興隆に尽くした蘇我氏の立場を擁護し、乙巳の変で入鹿を見殺しにした皇極天皇を批判するようなベクトルも存在しました。蘇我氏における葛城の意義などは、兼右の時代には窺い知れないことだったでしょう。しかし、推古天皇の「是れ後の葉の悪しき名ならんとのたまいて、聴しめさず」という言動は、歴史を扱う者として胸に響く表現だったのではないでしょうか。
 さて、1週間置いた後のSさんの報告ですが、多少の見落としはありましたけれども、翻刻自体はよく出来ていたと思います。書いた先後を判断し、左訓・右訓どちらを採るか決めていましたが、ひとつの考え方だと思います。とにかく、ちゃんと基準を設定して読むことが必要ですね。後は、細かい情報を見逃さないこと。講義でも指摘しましたが、4行目の「西国」に付された訓「テンチク」には「秘説」との書き込みがあります。吉田家伝来の読み方という意味でしょうが、中世に大きく展開し中世神話にも影響を与えた、三国思想を髣髴とさせる読み方です。中世の史料としてこの写本を読む場合には、大いに注意が必要な部分でしょう。
 内容的に面白かったのは、僧による祖父殴打事件はもちろんですが、境部臣の登場なども見逃せません。境部は境界を画定する氏族で、境界祭祀の担い手であったようですが、その関連から外国使節の饗応、転じて外交交渉や対外軍事も担うようになっていったと考えられます。今回登場した雄摩侶は、後段の田村皇子/山背大兄王皇位継承争いの際、後者を推したために自殺に追い込まれる摩理勢の子息であったと推定されています。摩理勢は馬子の弟か叔父に当たる人物で、蘇我本宗と内政/外政を分担し統括していたようです。また後に話したいと思いますが、一般に蘇我氏VS皇親の構図でみられている山背大兄自殺に至る流れは、蘇我氏の内紛といった色彩が濃いと考えられます。