I君・Kさん・Mさんの報告についての講評

 I君の発表は、簡にして要を得たいい報告だったと思います。翻刻もよく出来ていました。右訓・左訓のどちらを取るかについても、それなりの見識があってよかった。ただし、用語解説などでは、まだ古代史用語に熟達していない面が少しみられました。別に取り上げなくてもいいことですが、中臣連弥気の「前事奏官兼祭官」については、律令的官制の成立過程において極めて議論の多いところです。私は粉飾だと思っています。
 Kさんも頑張りはみえました。ただ、読み方にしても施注にしても、注釈書類に頼りすぎている面がありますね。さらに一歩先へ進んだ内容がほしいところです。
 Mさんは1週間措きましたから、レジュメもその間に訂正して、よく読めていました。ただ、「遣」や「告」など、同じような情況でも異なる読み方をしている字、読み方の指定を非常に簡略化している字も多くあります。兼右の訓み方によく注意してください。「寧ろ叔父に違あるにや」と訓むか、「寧にぞ叔父に違はむや」と訓むかという問題は、日本書紀史観の展開とも関わりがあります。兼右は前者ですが、蘇我氏と上宮王家を対立的にみる視点が一般的だったからでしょう。最近では、後者の方が文脈的に自然と考えられています。史観のありようによって訓み方が変わってくる、という面白い事例ですね。
 さて、内容的なことについて少々。前回の報告から引き続き、ここは舒明即位をめぐる大夫たちの混乱を描いている場面です。問題の核となっているのは推古天皇の遺詔とその運用で、蝦夷を首班とする大夫層と山背大兄との間に齟齬が生じ、意見のやり取りが行われます。ここは系図を念頭に置いておく必要がありますが、山背大兄は蘇我氏内部の人間であることに注意が必要で、あくまでも蝦夷ミウチとして、叔父の真意を確認したいという方向で問いかけがなされます。蝦夷はそれに対し、真意は直接会って吐露したいが今はできないとし、両者の間に誤解が広がってゆく形になります。次回の人の担当分でその綻びが表面化しますが、この時期は馬子の死から間もなくで蘇我氏とその同族関係のなかでさえ充分統率がとれておらず、朝廷も大臣蝦夷の下に完全にはまとまっていない状態です。恐らく、その運営に苦慮した蝦夷が、他の豪族たちとの妥協策として田村擁立に動いたのでしょうが、そのことが蘇我氏内部に亀裂を生じる。そこで勃発するある事件が、後の乙巳の変の大きな契機を作ることになるのです。