僧旻にしても南淵請安にしても、良家の子弟が通うような私塾を開いていたということですが、個人的に子弟の親から資金を集めて開いていたのでしょうか。

さあどうでしょうか。僧旻の私塾にしても請安の私塾にしても、いまひとつ実態がよく分からないのですが、公的なものでないとすれば月謝のようなものを集めていた可能性はありますね。あるいは、蘇我氏のような大豪族をパトロンに付けていたことも考えられます。僧旻の場合は僧侶ですから、私塾といっても、恐らくは寺の一角を使用したものだったでしょう。彼が所属した寺院は不明ですが、乙巳の変まで最も公的な役割を帯びていたのは飛鳥寺だったと考えられます。後に、唐から一切経を持ち帰った法相宗の道昭は、飛鳥寺の禅院にそれを安置し、仏教界で大変重宝されたという話もあります。後、僧官である十師に任命された僧旻は飛鳥寺に住んだと思われますが、帰国当初もやはり同寺にあって舶来の知識を伝えていたのかも知れません。とすれば、財源は朝廷が負担していた可能性も出てきます。