当時の人々や後世の人々は、仲麻呂の描いた鎌足像をそのとおりに理解できていたのでしょうか。/『説文』では「史」を中正を持つ者と説明しているそうですが、仲麻呂の歴史叙述は中正とは思えませんでした。それも古代的な意味では中正といえるのでしょうか。
『周易』はそれなりに普及しており、知識を持った貴族は大勢いたでしょう。しかし、彼らに仲麻呂の意図が充分読み取れたかどうか、恐らくよほどの学者でなければ無理だったと思われます。これは、『家伝』が誰に向けて書かれたのかという問題、歴史叙述の性格に関わって来る問題です。様々な政治的粉飾の施された『家伝』ですから、国庫に保存されただけとか、まったくの門外不出であったわけではなでしょう。子孫も含め、それなりの読者層がなければ、恵美家の正当化がなしえません。しかし易による粉飾(とくに引用のない乾卦)については、恐らくは鎌足の生涯をデザインしなおすこと自体に意味があったとみるべきです。「しなおす」というとまた修正主義的な色彩が強くなってしまいますが、中国古代の叡智である易を用いて、これこそが鎌足の真の生涯であると示したといえばいいでしょうか。すなわち、仲麻呂の叙述は正当化というより発見であり、鎌足の生涯の本質を探り当てる試みであったと考えられます。