史料2で神殺しを行った河辺臣は、いくら天皇権力が神よりも強くなってきているとはいえ、罰せられたりはしなかったのでしょうか? この物語を記述した人は、何か罪を得そうな気がするのですが。

この伝承の成立については、拙稿「伐採抵抗伝承・伐採儀礼・神殺し」(『環境と心性の文化史』下、勉誠出版、2003年)で詳述しましたが、もとは河辺臣の氏族伝承であったと思われます。同氏は外交使節や外国への派遣将軍を輩出した家柄ですが、それだけに、早くから中国的な神殺しの物語を導入していた可能性があります。しかし、天皇の権威が自然神を上回るとするのは明らかに王権サイドの発想で、即神化を遂げる天武・持統朝以降の潤色です。恐らくは『日本書紀』編纂の時点で、編纂官によって付加された要素でしょう。皇祖神を除く神祇の権威を超越することによって、大王はそれらを祖神・氏神として結集する諸豪族を服属させ、宗教的にも保障された安定的な王権を築こうとします。天武・持統の宮廷では大王を神とする歌が詠まれ、宮都造営や条里制開発の現場では神殺しが語られて、神々の頂点に立つ大王=天皇の姿が構築されてゆくのです(いずれ講義でも触れます)。つまり、神殺しは一種の「国策」であったわけで、処罰というより、逆に国家が喧伝した物語であったといえます。