推古朝の時代、百済と高句麗の技術が混在して使われていたようですが、そのことが寺院ごとの建築様式の相違に結びつき、寺院や豪族どうしの争いの種になったりすることはなかったのでしょうか。

この時期、寺院どうしの軋轢はあまり見受けられませんが、逆に『書紀』の表面からみえる政治的対立とは違った氏族的交流が、寺院の造営から垣間見えることがあります。金堂に葺かれた軒丸瓦の瓦当紋様からすると、当時の造寺技術は、蘇我氏系・上宮王家系(百済系)、秦氏系(高句麗系)の三系統に大別できます。蘇我氏系は、飛鳥寺・豊浦寺を主軸に飛鳥の中心地域を押さえ、北は木津川沿いに山背の高麗寺まで、西は大和川沿いに河内の船橋廃寺・衣縫廃寺までを勢力下に収めています。上宮王家系は、斑鳩寺(若草伽藍)を中心に聖徳太子関連寺院に分布していますが、斑鳩寺や四天王寺では蘇我氏系も使用されており、同氏と厩戸王との協力関係が浮かびあがってきます。秦氏系は、氏寺の北野廃寺(葛野秦寺)のほか、飛鳥の豊浦寺・奥山廃寺といった蘇我氏系寺院、中宮寺・平隆寺などの太子関連寺院に供給されており、山背の隼上り瓦窯・幡枝瓦窯、摂津の楠葉瓦窯などを拠点に、大和・山背・摂津・河内という広汎な地域に分布、蘇我氏系の不足を補っていた痕跡があります。すなわち、蘇我氏秦氏も協力関係にあった可能性が大きいのです。また興味深いのは、秦氏系の瓦が、物部氏系とみられる渋川廃寺・交野廃寺にも供給されていることです。蘇我氏系の瓦を出す衣縫廃寺も、物部氏系の衣縫造が造営した可能性が指摘されています。『書紀』の崇仏論争記事における対立の構図とはまったく異なる関係がみえてくるわけで、『書紀』の歴史叙述自体の再検討にも繋がるのです。