中大兄の築いた漏刻台の時間の概念は、観勒の暦法に基づいていたのでしょうか。

恐らく元嘉暦に依拠したものであったと考えられます。石神遺跡からは、持統天皇3年(689)の具注暦木簡が発見されていますが、これは元嘉暦に基づいています。同6年(692)からは新しい儀鳳暦との併用が始まり、文武朝には切り換えられるので、斉明朝は元嘉暦を用いていたと考えるのが自然です。