インドのサティーのように、日本には殉死の風習はなかったのでしょうか。

日本書紀垂仁天皇三十二年七月己卯条の記述によれば、皇后日葉酢媛命の喪葬に際し、それまで行われていた殉葬の旧弊を改めるべく、土部を率いる野見宿禰によって、土人形たる埴輪が創造・設置されたとされています。しかし、考古学的に分析すると、人物埴輪は決して殉葬のためのものではなく、被葬者の生前の様子や死者の国での生活ぶりを表示するために用いられています。また、日本で殉葬が行われていたという確実な事例はみつかっていません。野見宿禰の物語は、あくまで喪葬儀礼を担っていた土師の始祖伝承であり、政治的喧伝でもあると思われます。