天皇の開発に対する反発はどのような形で天皇に伝わったのでしょうか。 / 斉明天皇が中国の様式を取り入れて王権を強化したかったのは分かりますが、こんなに批判を受けたらさすがに諦めるのではないかと思うのですが。

飛鳥という空間では、王と民の間はそれほど隔絶していなかったと考えられます。もちろん、民が直接王に苦情を訴えることはなかったでしょうが、その不満や怨嗟が、豪族たちを介して王に伝わることは充分にあったでしょう。古代の史料には、時折「時の人の云はく」という形で、当時の批判的な世論が記されることがあります。また、(これは中国的ですが)「童謡」という流行歌の形式で、王権への不満や社会的不安が語られることもあります。王とはいえ共同体と分離してしまっていてはその存在が成り立ちませんから、世論の動きには常に関心を払っていたと思われます。