複都制についてですが、アケメネス朝ペルシアにおいて、グレイオスI世はスサやペルセポリスに都を置き、分業していました。また、季節に応じて王の身を移していたといいます。となると、天武天皇も夏の猛暑から逃れるなどの理由で、複都制を敷いたとはいえないでしょうか?

天武天皇の時代は、古墳時代に続いた寒冷期がようやく終わろうとしている時期で、避暑という概念はそぐわないかも知れません。ただし、持統天皇は山水の清らかな吉野の地に鳴滝宮を築き、たびたび行幸しています。吉野にはリゾートとしての意味合いもあったでしょうが、日本における神仙境(講義でお話しした桃源郷のようなものです)と位置付けられており、宗教的なエネルギーを活性化するための行幸だったのではないかと推測されています。天武朝にも吉野宮は機能していましたが、天武は信濃にもそうした意味づけを見出していた可能性はあります。