民衆は、皇極天皇と斉明天皇が同一人物と知っていたのでしょうか。

大事な視点ですね。どの程度のスピードで、どの程度深く認識していたかは分かりませんが、古代の民衆にも天皇の個性に関する情報はある程度伝わっていたものと思われます。それは、各国の地理や産物、伝承などをまとめた『風土記』に、固有の天皇の伝承を持つ地名が多数記載されているからです。これらがいつまで遡れるのかは充分な分析が必要ですが、継体天皇の伝承を持つ常陸国行方郡周辺には、継体陵墓の可能性が高い今城塚古墳と同一規格(ミニチュア)の古墳が営まれているのです。恐らくは改新以降持統朝に至るまでの天皇の創出過程で、その神話的ありようが積極的に地方へ打ち出されていったのでしょう。その際には、ちょうど藤原京造営と同じように、官道や条里制の大規模な開発工事が併せて展開されたものと考えられます。民衆は、それこそ神と同じようなものとして天皇を捉えるに至ったのでしょう。しかし、皇極/斉明の時点では、その個的情報を知りえたのは飛鳥周辺に住む人々に過ぎなかったかもしれません。