前近代社会や民族社会においては、なぜ「人間神」という概念が持ち出される必要があったのでしょう。

神を奉祀する存在がやがて神性を帯び、それ自身神と同様に崇拝されることになるのが人間神でしょう。日本の天皇もそうですし、誤解を恐れずにいえば釈迦やイエスにも類似の痕跡をみてとることができます。宗教の原始段階においては、広く共通して見出せる事象なのでしょう。それがなぜ始まったか、恐らく画一的な理由を見つけ出すのは困難で、また生産的でもないと思いますが、個人的には直截「殺せる存在」が必要だったのではないかと考えています。例えば自然を神と崇めている段階で大規模な災害、長期的な飢饉などが生じたとき、当初人々は「神が我々に怒っている」「我々が神の望む道を踏みはずした」などと考えます。祟りに対して鎮祭を行う日本の習俗や、神に対しひたすら許しを請う旧約のユダヤの民などはこの段階でしょう。しかし、人間の知識や技術がより発展してくると、神々に上下関係を案出して信仰対象を乗り換えたり、災害を降す存在を悪神や怪物として退治してしまう行動が生じてきます。いずれも神と人間との関係をリセットし、災禍を避け幸福を得ようとするものですが、人間神もそのためのツールのひとつとして生み出されたのではないでしょうか。目に見える形で殺害できる人間神は、共同体にとって、極めて〈分かりやすい〉リセットスイッチであったと思われます。神との関係を修復できなかった祭祀者を殺す、あるいは供犠するということが、そのプロセス上に行われていたかも分かりません。