飛鳥宮は最終的に飛鳥寺を内包していったという見解がありますし、浄御原宮のエビノコ郭は大極殿ではないかという議論もあります。天武・持統朝に、王権の象徴性を高める努力がなされていた証拠とみていいでしょうか。

もちろんそうでしょう。天智朝の近江大津宮には、内裏の西殿に仏殿があったという記録が残されていますが、国家守護のために神祇信仰と仏教を併用しようとしていた当初、宮自体にも仏教的機能を内包させようという意図があったのかも分かりません。藤原宮ではそれが明確に外部化し、平城宮以降もその方向性を踏襲、宮内に仏教施設を作ることは行われなくなってゆきます。それは一見神仏分離のようにも映りますが、京内には計画的に寺院が設置される一方神社は設けられなかったことを考慮すると、藤原宮での仏教施設外部化は京の成立と関連する事象なのかも分かりません。ただし、宮中や神祇官西院には様々な神格が祀られていますので、やはり一定の〈外部化〉が生じたことは否定できないのでしょう。