諸葛顧廬、韓信升壇

【レジュメの訂正点(主要なもの)】
・書き下しについては、幾つか返り点の誤りがありましたが、とくに指摘が必要なものはありませんでした。
・「綱目集覧」(レジュメp.5注22)……「綱目」については『資治通鑑綱目』でいいのだと思うのですが、「集覧」が気になります。ぼくもよく分からなかったので調べてみたのですが、清の乾隆帝勅撰による『御批歴代通鑑輯覧』という、伏羲から明代までを対象とした歴史書がありますのでそのことかも知れません。ただし、成立が『箋注』とほぼ変わらない時期ですので、岡白駒に閲覧することができたかどうか微妙なところです。
・「八陳図」(レジュメp.6注22)……いかなるものであったのか考察すること自体が重要な研究になるでしょう。当初は戦場において機能的な意義があったのでしょうが、後に呪術的な様相が濃くなってゆきます(こうした方向性は兵法自体にも認められます)。中国では先殷時代から「洛図」に結実する魔法陣が見つかっており、それらはやがて道教陰陽道に用いる式盤、風水の羅盤へと繋がってゆきますが、これらの図形は八陳図の具体相を考えるうえで重要でしょう。
・「李奇」(レジュメp.11-l.19)……李奇については詳細不明ですが、『史記』三家注、『漢書』に施注がみえます。
【テーマについて】……平安貴族社会においては、諸葛亮韓信といった乱世に名を馳せた人物はあまり注目されなかったのかも知れません。『三国志』関連の人物は、例えば藤原公任の『和漢朗詠集』や源為憲の『世俗諺文』に登場しますが、ほとんど風流譚や教養譚にかかるものです。『蒙求』が勧学院のテキストに使われていたのは有名な話ですが、彼らが同書に何を求めたのかは注意して考える必要があります。『蒙求』は歴史を学ぶために読まれたのか、それとも儒教の本質を考えるために読まれたのか。いずれにしろ、人物の伝記を通じて過去を理解しようとする歴史観は中国に古くからあり、日本へも早くに伝わっているので、『蒙求』に載る英雄や偉人の生涯に触れて「このように生きたい」と願った人々も多かったことでしょう。平安時代の貴族たちが誰のようになりたいと憧れていたのか、東アジア的視野のなかで考えることには重要な意義があると思います。ちなみに、治承寿永の内乱を契機に中世以降は諸葛亮の人気も高まってくるようで、『平治物語』には「死せる孔明生ける仲達を走らす」が引用され、『太平記』では新田義貞の夢に孔明が現れたりします。