衛青拝幕、去病辞第
【レジュメの訂正点(主要なもの)及び注意すべきスキルについて】
・こちらも箋注本が注意深く復原されていて優秀でした。「去病辞第」の方には多少返り点の位置の間違いがありましたが、ケアレスミスの範囲です。ただし、句読点どこに付けるかにはもう少し注意が必要だったと思います。
・「元朔中、将二三万騎一」(レジュメp.1上段末尾)……「将」を「ヒキゐる」と訓むか「ショウする」と訓むかによって微妙なニュアンスの違いが生まれます。前者なら単に率いる、後者なら将帥として統轄する意味になります。箋注本は「y」を用い「ショウして」と訓ませていますので、後者がよいでしょう。
・「顧二方略何如一耳」(レジュメp.6上段l.12)……下文に「顧は念なり」との箋注が付いていますので、ここは「カエリみる」ではなく「オモふ」と訓むべきところでしょう。
・特殊な傍訓について……何度か出てきていますが、「y」は「〜して」、「寸」は「〜とき」、「ヿ」は「〜こと」と訓みます。覚えて下さい。
【テーマについて】……前漢・後漢王朝は、外戚と宦官による王権の私物化により腐敗が進んでゆきますが、武帝時代までは宮廷の周辺に潔白かつ優秀な人材が輩出します。とくに、衛青と甥の霍去病、そして関白の由来となる去病の異母弟霍光などは、その代表例といえるでしょう。この話のポイントは、そうした王臣のあるべき姿を高らかに伝えるとともに、背景には伝統的兵法の革新という問題を隠している点です。まとめていただいた通り、日本との関係でいえば幕府の語源であることが重要視されます。征夷大将軍も、建前的には、夷狄を征伐するために皇帝から権限の一部を寄託されている存在ですから、匈奴を討った衛青の存在とそっくり重なるわけです。衛青が伝統的兵法を用いる将軍李広を差し措いて匈奴戦に勝利を続け、霍去病が呉子や孫子の兵法を斥けたように、この二人の将軍に、前代の歩兵主体のものではなく、騎馬を用いた迅速な戦闘法が認められます。日本で鎌倉幕府を開いた頼朝も、先行する平将門や藤原秀郷、大江流の兵法・武家故実を集積し、棟梁としての地位を固めようとしていました。頼朝も衛青や霍去病と同じように王族に繋がる貴種ですし、彼の念頭に、武帝のもとで夷狄征討に尽力した将軍たちの姿があったとしたら面白いですね。