自然環境の破壊について、藤原京を画期に大規模化するというのは唐突な印象がありますが、それ以前はどうだったのでしょうか。

もちろん、規模こそ違え、縄文・弥生・古墳と各期にわたり開発は進展してきました。縄文期には、日本列島の平野部はほとんど森林に覆われていましたが、弥生から古墳期に至る稲作農耕の展開によって、かなりの部分が伐採されてしまったことが分かっています(残された山に信仰が集中したのはそのためでしょう)。藤原京造営に近い時代では、大化改新後の斉明朝に大規模な都市開発がありました。その具体相は近年の発掘成果によって判明してきていますが、『書紀』にはその様子はかなり批判的に書かれています。例えば、飛鳥へ石材を運搬するために穿った長大な水路は「狂心の渠」(すなわち、正気の沙汰ではない水路ということ)と呼ばれ、周辺の山林の荒廃や、工事の失敗を暗示する記述もあります。このときには、国際的緊張によって社会不安も増大しており、大王の政策が「神祇の許容を超えている」と判断されたのでしょう。大王の政治的権力、宗教的権威が未確立であったことも原因と考えられます。壬申の乱の勝利によって天武皇統の権威・権力が強大化し、中央集権制が推進されたことを背景に、初めて大王は自然神を超越する力を認められ「天皇」となってゆくのです。