斉明朝の飛鳥開発では土砂崩れ等を暗示する記事があるのですが、藤原については認められず、むしろ『万葉集』には、自然と調和した都であることを讃嘆する歌が載せられています。水の湧く低湿地であることは、古墳時代以来の聖地感覚に合致しており、人心の不安を呼び起こすには至らなかったのだと思います。造営過程において風水による占地が行われ、周辺の神々へ奉幣が繰り返されていたのも、人々の心性を「藤原京の肯定」へ向かわせる措置だったのでしょう。恐らく、実際の工事現場では多少の事故は起きていたでしょうが、それを不安に思わせないために、天皇即神の歌や神殺しの言説が喧伝されていったのだと考えられます。