テレビで阿修羅象の運搬を扱っているとき、僧侶が魂を抜く儀式を行っているのをみました。そういった「魂」は、仏像が作られたときから存在していたのでしょうか、それとも長い年月のなかで生まれてきたのでしょうか?

あくまで聖なる存在のカタチを模倣したもので、それ自体が神聖なわけではないにもかかわらず、仏像には何らかの神的な力が付与されてゆきます。それを「神霊が宿る」というイメージで捉える傾向は、やはり日本仏教で顕著です。いわゆる仏像の魂抜きや魂入れは、本来、儀式法会の際に仏をその場に招く(「勧請」といいます)作法から始まったのでしょうが、樹霊を家宅や船舶の守護神に転換するという発想も複雑に絡み合っています。すなわち、樹木に認める神霊自体が、仏像の神聖性として息づいているということですね。これは、やはり日本仏教(とくに天台宗)において特徴的な展開をみせる、草木発心修行成仏論(草木が自ら主体的に発心・修行し、覚りを開くという考え方)とも関わるものでしょう。